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秦きょうこ
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語り部。作家。
「むすびの文庫」と「ふゆる座」を主催しています。

いろいろのお問い合わせは、こちらまで。
上映会のご希望なども、お気軽にどうぞ。

musubino.huyuru@gmail.com
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11月9日(水)よる、
鎌仲ひとみ監督「ミツバチの羽音と地球の回転」の試写会へいってきました。

とても価値ある作品。
これは、
できるだけ早く、できるだけ多くのひととともに、
観たいです。

北九州の地では、
原発に対するひとびとの関心が、
フクシマの事故ののちもそれほど高くない。

それは距離がとおいから?
ううん、ちがう。
それも理由のひとつかもしれないけれど。
距離というなら、
玄海も上関も、ごく傍にあるんだもの。
それなのに、こんなにぼんやりしてるというのは、
いったいなにに因るのだろう。

「ミツバチの羽音と地球の回転」を観ていて、
とちゅう涙がとまらなくなった。
こころはスクリーンの中の祝島のひとと一つになっていた。
かなしくて、くやしくて、
あぁ、どうしたらいいだろうとおもった。
みなで手をとろうとおもった。
砂浜に生きる海藻や微生物たちをいとしくおもい、
釣りあげられた魚の薄紅に目をうばわれて、
色づいた稲穂のこうべの重みに感謝のきもちがあふれた。
どうかわたしたちから、
それを奪わないでくださいと、
どうかどうか、誰でもいいから、
この理不尽をとめてくださいと、
からだが割れるくらいにおもった。

映画はおわり、
祝島の風景と人びとの姿は目の前から消えてしまったけれど、
それらすべてがまぎれもない「現実」として、
わたしの内に生きはじめていた。
原発との距離が、にわかにちぢまり、
いまはもう、一呼吸一呼吸のうちに、
それを感じている。

あたえられるものが知識や情報だけでは、
わたしたちは当事者にはなれない。
わたしたちには、
心がひつよう。
感情がひつよう。
どんなに離れていても、
心はすぐさまかけつけることができる。
だから、そのために。
心を報じるために、
鎌仲さんは録っているのだとおもう。
いま、その映像がひつよう。
この国に住むひとびとの心がむすばれ、
大きなうごきを生みだしてゆくために。
そうした映像の力がひつよう。

みんなで、観よう。
届けるから。

わたしじしん、
要領わるく色々かかえていて、
実行委員としてどれほどの働きができるかわからないけれど。
北九州での上映実現のために、
できるだけのこと、したいと思います。

どんな形でも、
ご協力くださる方がいらっしゃいましたら、
わたしの方にご連絡くださいまし。

どうぞよろしくお願いいたします。




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ほんじつ19時より、旦過市場内の大學堂にて、
「ミツバチの羽音と地球の回転」の試写会がございます。

ふゆる座は、予定のとおり、蒸しぱん小店をひらくことができそうです。
17時すぎより、はじめたいと思っております。

○南瓜と小豆の蒸しぱん
○八つ橋蒸しぱん

ほんとうに少しばかりですが、おいでいただけますとうれしいです。

さて。
せんじつ、ふゆる菓子店の売り上げの一部をお送りしますとお話しした、
「ヒロシマ・ジュノーの会」。

こちらの会のこと、ひとつも説明しないままでごめんなさい。
以下に、会のHPより転載させていただきます。

*********************************

□ヒロシマ・ジュノーの会とは

「ジュノーの会」は、世界のヒバクシャ支援とくにチェルノブイリ原発事故の被曝者支援に取り組む広島県府中市の市民団体です。会の名前は、被爆後の広島に医薬品15トンを届け、被爆者の治療にあたったスイス人医師、マルセル・ジュノー博士(1904~61年)にちなんでいます。博士の精神を受け継ぎ、86年のチェルノブイリ原発事故の被曝者支援のため88年に発足しました。会員数は全国に約500人。これまでに延べ約200人の医師を現地に派遣し、甲状腺がんなど1000人以上の患者を診療、一人ひとりの患者さんにカルテ報告を行い、同時に小児白血病治療、血液感染症予防などの医療協力活動、またヒロシマとチェルノブイリのヒバクシャ交流を進めるなど、被災者の側に立った援助活動を続けています。チェルノブイリ被災者市民団体との強い協力関係もあります。

ジュノーの会の郵便振替の口座番号は以下のとおりです。
郵便振替=「01370-0-29460・ジュノー基金」
口座名義は「ジュノー基金」です。ジュノーの会ではなく、「ジュノー基金」です。
通信欄か空白に、「梅ドみ」と明記してください。

他銀行やネットから振込んでいただくときは、以下の振込先にお願いします。
   <他銀行から振込む場合の振込先>
   銀行名ゆうちょ銀行
   ■金融機関コード9900
   ■店番139
   ■預金種目当座
   ■店名一三九 店(イチサンキユウ店)
   ■口座番号0029460



□「梅ドみ」運動とは

 原爆投下の残虐さは他に例えようもありません。広島では、一瞬にして万を越える人びとが文字通り消え失せ、あるいは木の葉のように焼かれ、かろうじて生き残った人びとの中でも、数万人の人びとが、あるいは焼けただれた皮膚を垂らして幽霊のように歩きながら、あるいは倒壊した家屋の下敷きになって、あるいは水を求めて川べりにたどりついて、やがて息絶えていきました。そして、被爆の惨状の中でなんとか命を取り留めたかに見えた人びと、無傷で元気に救助作業を行っていた人たちが、被爆後2週間くらいした頃から高熱を発し、髪の毛が抜け、大量の血を吐くなどしながら亡くなっていきました。ピカに遭った者は全員が酷い死を迎えることになるのだ、という恐怖の現実。原発事故の場合、のちの晩発性障害の過酷さは存在しますが、原爆被爆の残虐さに匹敵する恐怖を体験する人は、ほんとうに僅かの、限られた人数の人たちだけだと言えます。
 少しでいいですから、1945年8月6日から約1ヵ月間の間に広島の地で起こった出来事のことを、知ろうとしてみてください。見渡す限りの廃墟。焼野が原。屍の山。無残な状態の生存者。昨日まで元気だった人があっという間に立ち上がれなくなり、死んでいく。
 そんな状況の中で、ある人はドクダミを飲み、またある人はハブソウを飲み、あるいはハトムギを飲み、柿の葉を飲み、あるいはカワラヨモギを食べ、あるいはたくさんのニンジンを食べ、あるいは味噌汁を飲み、あるいは味噌漬けを食べ、あるいはごま塩をまぶした玄米おにぎりを食べたり、あるいは梅干しを食べ続けたりしました。お灸もさかんに行われました。大量のお酒を飲んだ人もいましたし、大量の水を飲んだ人もいました。原爆症を乗り越えて生きた人の中には、このような、自分を救う療法を自ら行った人もいたのです。
  *   *   *   *   *   *
 私は、「避難」と「無料定期検診・治療制度」の話で暗く暗くなってしまった会場で、「梅ドみ運動」について話し始めた。
 「梅ドみ」と簡単に言うが、ちょっと考えてもらえればわかることだ。焼野が原の広島で、瀕死の被爆者が、わけもなく、そのあたりに生えている雑草を食べただろうか。そんなことはあり得ない。ドクダミを飲んだ人は、ドクダミを飲もうとして飲んだか、あるいはドクダミを飲ませようとする人によって飲ませてもらったのだ。ハブソウもそう。味噌もそう。カコソウもハトムギもカワラヨモギも、みんなそうなのだ。みんな、それらを飲もうとして、あるいは食べようとして、意識的にそれらを摂ったのだ。これらの行動は自覚的な救命行動だったのだ。
 なぜ人びとはそんなことをしたのか。
 答えは明白だ。
 被爆時に梅干し、ドクダミ、味噌、ごま塩、ニンジン、ハブソウ……などを摂った人びとは、これらの食品や薬草には「解毒」の力があるということを知っていたのである。
 彼ら・彼女らは、原爆のすさまじい破壊力とその後の惨状を体験する中で、すぐに「毒」を体外に排出しなければ死んでしまうと直感し、毒を体外へ排出するための方法を懸命に試みたのだ。
 では、なぜ、これらの広島の民衆は「解毒」の方法を知っていたのか。
 
 広島は、18世紀に、吉益東洞という医師を生んだ街だ。吉益東洞は「万病一毒説」をもって一世を風靡した、当時の日本を代表する医家である。彼は、病の原因となる毒を排毒することによって病は治ると主張し、患者の症状を吟味することによって、それぞれにふさわしい解毒の処方を行い、多くの命を救った。
 広島には、この吉益東洞の影響から、解毒の医術が浸透していたのである。それらは、代々の医家を通して、患者に伝えられ、さまざまな民間療法として人口に膾炙していたと思われる。体内に入り込んだ毒を解毒するには、ある場合はドクダミがよいし、またある場合はカコソウがよいし、別の場合はタニシがよい、といった具合である。民衆に対する医家による医学教育は、今日にくらべて、はるかに広く豊かに行われていたようだ。
 この18世紀の吉益東洞以来の解毒の医術が、長い年月の間に広島の民衆の間に定着し、被爆時に多くの被爆者の命を救ったのである。これらの広島の人びとは、原爆後の悲惨極まる状況下で、ピカを「毒」だと直感し、必死で、自分たちの知る限りの解毒の方法を試みたのだ。

 また、被爆直後の広島で人びとが自他に対して解毒の方法を試みようとしたのは、広島が日本における赤十字運動の拠点都市であったことにも深く関係している。
 佐野常民の生涯の悲願であった「敵・味方を問わず戦場で傷ついた傷病兵の命を救う赤十字活動」は、日清戦争の戦場で初めて実現する。日本赤十字の救護班は、銃弾の止む僅かの間に、敵・味方を問わず、戦場に斃れている人びとを収容し、治療し、多くの傷病兵の命を救ったのである。少なくとも日露戦争期のある段階までは、日本赤十字の人命尊重の活躍は、諸外国から、諸外国の人道支援団体からも、大きな賞賛と尊敬を得、文明国・日本の価値を大いに高めたのであった。
 この黎明期の日本赤十字の清新な活動は、広島で組織され実行に移された。この赤十字活動を中心的に担ったのは、安芸(広島県西部)・備後(広島県東部)の若者たちであった。少なくとも1890年代には、広島県一円で、赤十字の実施訓練が行われていたようである。
 原爆投下後の惨状の中でも、人びとの間で、互いに助け合い互いに解毒の方法を教え合うという行動が見られたのは、このような数十年来の赤十字活動の成果でもあっただろう。
 広島は、大日本帝国によって軍事都市に変貌させられようとする以前は、民衆の間に伝統医学・民間療法の知識が広く浸透した、赤十字活動の拠点都市だったのである。

 こうした広島民衆の在り方が、原爆被爆の緊急事態下に、人びとを「解毒」に導き、多くの命を救ったのだった。頭上で太陽2個分の爆弾が炸裂し、地上に地獄が現出したとき、吉益東洞以来の広島の民衆の歴史が、人びとを「毒を出す」行動へと導き、さらに赤十字活動の歴史が相互治療・相互介護的行動をも生み出すことになった。
 
 そして、こうした、原爆時に多くの人びとの命を救った「解毒」の方法のエッセンスを、ジュノーの会では「梅ドみ」と呼んで、フクシマの人びとに早急に届けようとしてきたのである。
 症状が出ない間はこうした解毒の方法はかなり有効だ、と言われている。しかし、このことは言い換えれば、症状が出てからでは手遅れだ、ということでもある。私は取るものも取りあえず、一刻も早く、これら「解毒」の方法をフクシマの人びとに伝えようとした。遅れれば、それだけ命に危険が迫るのだ。

 ともかく、このような広島の江戸時代以来の民衆の歴史に基づく「解毒」の方法が「梅ドみ」なのだ、ということを私は話そうとした。わかってもらえるように話せたかどうか、自信がない。
 大日本帝国軍隊による軍事都市化にもかかわらず、広島民衆の間に脈々と流れ続けた人道支援都市の伝統が、原爆被爆後の惨憺たる日々にあって、一切の医療施設・医療器具・医療スタッフが消失または欠乏していた状況下で、多くの人びとを自覚的な解毒行動へと導き、多くの人びとの命を救ったのだ。「梅ドみ」は、この「民衆の英知」のエッセンスなのだ。みなさん、「梅ドみ」を積極的に試してみてください。実際、被爆・被曝時に有効な対処法は他にはないのです。――私は、そんなことを一生懸命に語ろうとしたのだった。



*********************************

「塵も積もれば山となる。」

むかし砂場で、
山つくってあそんだでしょう。

これもまた、然り。
あそびだよ。

みなで、こつこつと、積んでこう。








おはようございます。

きのう深夜に、胡桃味噌をいっぱいつくって、
そしたらけさ、寝坊しました。
でも、遅刻することなくぶじに学校です。

さて、
「ミツバチの羽音と地球の回転」試写会のお知らせですよ。

とき あす11月9日(水) 19:00~21:30
ばしょ 旦過市場の大學堂

監督は、
「ヒバクシャ」や「六ヶ所村ラプソディ」で知られる鎌仲ひとみさんです。
以前、多摩美術大学で中沢新一さんとの対談を聞いたことがありますが、
とても実直でかっこよい人でした。

わたしも明日、しごとを終えてから遊びにまいります。
(蒸しぱんの小店もひらく予定。)

ご都合つきます方は、ぜひご一緒しましょう。

むすびの文庫、および大學堂にて時おりひらく「ふゆる菓子店」。

これまで「東方へ捧ぐバザール」として、
みなさまにお買い上げいただいた金額より、
材料費と光熱費の概算分と
「ふゆる座」上映会で出してしまった赤字分をさしひいたものを、
義捐金として東へおくって参りました。

先日こちらでご報告しました11月4日(金)の「続・原子力茶屋」では、
お蔭さまで¥2750の売り上げがありました。
材料費等まだ概算を出しておりませんが、
みなさんにいただいたお金、こんどもお送りいたします。

どこへお願いするのか、すこし迷って、
「広島ジュノーの会」に決めました。
「梅ドみ」が、放射能から人びとの心身を守ってくれますように。

「ふゆる菓子店」。

できるだけ安心して戴くことのできる植物をつかって、
おだやかに大事につくって参ります。

まだずっと下手くそで、
ううむと唸ってしまわれることもあるかと思いますが。

みなさんに喜んでいただきながら、
また自身も大いにたのしみながら、
この国の一大事に微力をそえてゆく為の、
私のたいせつな手段であります。

どうぞ今後とも、あたたかく見守ってくださいますよう、
おねがい申しあげます。

秦きょうこ拝






きょうは、母とふたりの朝ごはん。
南瓜としょうがのチャーハンをつくりました。

これは母の好物で、
いつも作ると大よろこびしてくれます。

そのあと、甜菜糖をまぶした紅玉をじわじわと火にかけて、
すきとおった紅に染まったところに、生姜汁をたっぷりとかけました。
まぁ、うつくしいジャムだこと。
もちろん、とてもおいしい。
「あなた達って、つくづくすごいわ。」
紅玉と甜菜と生姜に云いました。
ありがとう。お蔭よ、心づよい。

それから、針しごとをすこしして。
母とともに「むらさきつゆ草」へ出かけました。

雨でふくらんだ遠賀川を下流へたどり、
ブロッコリー畑の緑をながめているうちに、つきました。

「むらさきつゆ草」のパンは、
かわいい、おいしい。
空間をつくっている一つひとつも、
みな好みのもの。
だから、このお店はすきです。

けれども、何より、
お店のご夫婦がわたしは大すき。
ときおり、会いたくてしかたがなくなって、
こうして川をたどって出かけるのです。

きょうも、さんざんご馳走になった上、
ご夫婦の差しだしてくれる色々に、
「内なる子ども」みたよなものが蘇り、
わたしは手たたいてよろこび、声あげて笑い、
さいごは唄までうたって、
まるで大宴会の様をみせて、帰ってまいりました。

母はとなりで、恥ずかしかったかもしれない。
ごめんね。

そうそう、
こちら「むらさきつゆ草」では、
いつもすばらしい器で珈琲をだしてくれます。

きょうの器は、ぐにゃぐにゃの形、
ざらざらの手ざわりだった。
こういうのに触わると、感覚が目覚めるんだよな。

つるんと規格の物ばかりだと、
感覚はこん睡状態に落っこちていく。
寝ぼけ眼のぼんやり世界。
画素数の小さいデジタルフィルムのように、
微細な差異世界を、粗い概念で塗りつぶしてっちゃうでしょう。

だからさ、あえて、
こんな器がいるんだよ。
ぐにゃぐにゃで、ざらざらの。

世界の表情ってのは、こんななんだって、
都会のただ中に立ってても思いだせるように。
アスファルトなんかひっぺがして、
ほんとの地面にさわりたいんだって、
そう願ってるじぶんにちゃんと気づけるように。

珈琲をいただきながら、
そんな話をご主人としていました。

そして帰りしなには、奥さんに「梅ぼしの唄」を習いました。
明治生まれの奥さんのお父さまが、昔よく口ずさんでいた「梅ぼしの唄」。
幼いころにくり返しきいていて、すっかり諳んじられるようになったのですって。

あんまりよい唄なので、書き写させてもらってきました。
こんなです、みなさん、いかがですか。


「梅ぼしの唄」

二月三月 花盛り
鶯鳴いてる 春の日に
楽しい季節も夢の内
五月六月 実が成れば
枝からふるい落とされて
近所の町までもち出され
何升何合 計り売り
もとより酸っぱいこの体
塩に漬かって辛くなり
紫蘇に染まって赤くなる
三日三晩の土用干し
思へば辛いことばかり
これも世の為人の為
皺はよっても若い気で
小さい君らの仲間入り
運動会にもついて行く
況して戦のその時は
なくてはならぬ私です


ふるい国定教科書に載っていたのだそうです。
ゆたかな唄。どなたの作だろう。洒落ているよなぁ。

おうちに帰って一息いれて、
こんどは「八つ橋蒸しぱん」をつくりました。

シナモンと小豆餡をいれるから、「八つ橋」なの。
香ばしく炒った胡桃もはいります。
きょうは干し葡萄もいれてみました。

パウンド型ふたつ分をつくる。
母はつくるのはじめてだから、
がちがち緊張してて、わるいと思いつつ笑ってしまいました。
ごめんよ。

でも、とても上手に蒸しあがりましたから、
彼女はいま天狗になって空をとんでいます。

夕方、フルマラソンの大会に出ていた父が、
ふぐのから揚げをたくさん買ってぶじに帰ってきました。
この雨の中、42.195kmを走ったなんて嘘みたいに、
すずしい顔してソファに腰かけて、録画していた小三治の落語なんか観ています。
父は、いつもこんなだ。昔から。

ここだけの話、わたしは幼いころ、
この人はものの本のなかに書いてある「仙人」の類なんだろうと本気で思っていた。
「父親」ぽさよりも、「仙人」ぽさがずっと勝っていたから。
いつか突然、山に行ったなり帰ってこなかったとしても、
「ああ、山に帰ってったんだ。」
と、理解しただろう。
さみしいけれど、かなしむことではないなと、幼いながらに納得しただろう。

そんな人だ。いまも、変わらず。

その父は、こんや母に、
「還暦のお祝いに、宮沢賢治全集を贈ってほしい。」
とせがまれて、にやりとうなずいていた。
母大よろこび。
「死ぬまで読む。」とさわいでいた。

母に、賢治さんの「冬のスケッチ」の一節を朗読してあげたら、
本をうばいとって寝床へもっていってしまった。
もうすこし読みたかったんだけれど。

しかたがないので(という言い方は罰当たりだ)、
「般若心経」と伊藤比呂美の「新訳般若心経」をならべて読んで、
吉本隆明の『最後の親鸞』を読み返しています。

きょうの文章は、とりとめもないですね。
つれづれに。はてもなく。
「心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなくかきつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」

おつきあい下すって、ありがとうございました。
おやすみなさいませ。





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