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秦きょうこ
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語り部。作家。
「むすびの文庫」と「ふゆる座」を主催しています。

いろいろのお問い合わせは、こちらまで。
上映会のご希望なども、お気軽にどうぞ。

musubino.huyuru@gmail.com
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○スーパーの食肉売り場から、
声が聞こえる。
動物たちの声。
彼等は殺されたんだけれど、
もう死んでいるんだけれど、
その亡骸に、声がこびりついている。

主体を奪われた彼らの。
客体としてのみ生かされ、
客体としてのみ殺され、
客体としてのみ食べられてゆく、
その彼らの。
声。
声。
声。


これが、わたしが肉を食べられないでいた理由。
菜食をつづけていた理由。

マクロビオティックを実践していた、
というよりも、
この悲しい命たちに触れられないでいた、
というのがほんとう。

彼らの命が、かなしすぎた。


○彼らの声が聞こえるようになったのは、
8歳のときだ。
サチが居なくなってから、
動物と人間のことをかんがえるようになった。

サチとわたしは同い年だった。
生まれた月も一緒だってことも聞かされて、
わたしはサチと自分とをまったく混同しちゃってたのだ。

わたしはサチだし、サチはわたしだ。
そこに境はなくて、
わたしは人間だし犬だった。

あの頃の身体感覚…
と目をつぶり記憶をたどると、
サチの身体が浮かんでくる。

小麦色の毛に覆われた、かわいい腕が。
先っちょがぴかぴかにぬれた長い鼻づらが。
ぴくぴくとよくうごいて、遠くの音をききつけるとがった耳が。
アスファルトを走るとカチャカチャと鳴る細い足先が。
べろんと長くて上手に食べものをすくいとる舌が。

ぜんぶ自分の身体の記憶としてよみがえってくる。
サチが近所の男の子にいじめられて、
ギャンッと声をあげたとき、
わたしはその声の分だけとっても痛かった。
その悲痛は、そのままわたしの痛覚に伝った。

どんな生き物にも、
あんな声をあげさせてはいけないって、
それはじぶんの許容を超えるって、
それ以来そう思うようになった。

サチにはじまり、
サチをこえて、
わたしはともに暮らすたくさんの生き物と、
そんな風にかかわって生きていた。
そのつもりだった。


○ところがサチが居なくなって、
おいおいと泣き叫びながら、
人間と動物との境目というものに目を凝らしていた時、
気づいてしまった。

サチが大すき、
どうぶつって呼ばれてる仲間たちを、
わたしは大すきだよ。

という自分の思いには、
大きな盲点があるっていうこと。

ほら、ねぇ、
今日わたし何たべたの?

鶏、ぶた、牛。

わたしがおいしいって食べてるものの中には、
その「どうぶつ」ってのがたくさん居るっていうこと。

サチが大すき、どうぶつが大すき。
という心と、
ただ「おいしい」というばかりで、
いのちに無関心に彼らを食べている自分とのあいだの、
断絶。
みごとに、ぶつりと、切れている。

そうだ、ごまかしちゃいけない。
正直でなくちゃいけない。
ほんとうは感謝なんかしていない。
生き物だとさえ思えていない。
肉は肉だ。
物だ。
客体だ。

そこに、
彼らの主体を読みとることを、
わたしは完全に、止めてるじゃないか。

彼らをすき?
ちがう。
すきなのは肉だ。

そうだ、だから、
「いただきます。」が、
人間にしかむかないんだ。
食べ物のありがたさを、
いのちの尊さを、
どんなにレクチャーされたって。

あぁ、どうしよう。
サチ、どうしたらいい?

あなたへの親愛と、
あなたに等しい生き物たちへの残虐を、
わたしは一体、どうしたらいい?

わたしはほとんどパニックになって、
じぶんを恐れるようになって、
肉を食べるということを、
うまくできなくなっていった。

スーパーの食肉売り場がこわくなった。
泣いてるんでもない、
怒ってるんでもない、
ただ静かに置かれた彼らの亡骸にこもる声が、
胸にわんわんと響く。

それは鼓膜を通さずに、
じかに胸にくる声。
たまらなかった。
のどが焼けるようだった。

どうぶつの姿を映し出しては、
「かわいい!」と盛り上がる為のTV番組がくるしかった。
動物愛護ということばを聞くと、
家畜たちのことを思ってどうしたらいいか途方にくれた。

わたしは、
どうぶつを好きだと、
もう言えない。
この断絶が、解決されないかぎり、
そんなこという資格なんてないんだ。

8歳のあの日から、
そんな重たいものが、
ずっとずっと、腹の底にあった。


○もちろん、
差し出された食事をこばむことはしないできた。
彼らの身体は、できるだけ丁重にいただこうとつとめてきた。
けれど、それって浅いんだ。

だからせめて。
そこに、芯からの感謝が無いのだということ。
「(命を)いただきます。」という声も、
慣習による感謝の念のでっちあげでしかないということ。
ようするに、
彼らの実存を、わたしは体感できていないということ。
あふれる思いによる「いただきます。」ではないのだということ。

そのことから目を反らさないでいよう。
せめてそこだけは、麻痺させないでいよう。
と、思ってきた。

ほとんど、戒律のようにして。
それは、最低限度の倫理だ。忠誠だ。
サチへの、
彼女に等しい生き物たちへの。

それさえ忘れてしまったら、
それさえ破ってしまったら、
わたしはもう、永久に、
サチと切れてしまうだろう。
もう二度と、
話ができなくなるだろう。
心が離れてしまうだろう。

大きなわだかまりが、
わたしとサチを引き離してしまうよ。

サチよ、
サチに等しいこの世の生き物達よ、
どうかわたしを、見捨てないでください。
それがどれだけ厚かましい願いかって、
わかっているんだけれど、どうか、聞いて。
あなたたちの輪に、和に、
わたしをも一度還してください。

一人はいやだ。
あなたたちの身体によって、
生かされていながら、
心がひとりぼっちなのはいやだ。

あなたたちを食らうなら、
あなたたちの丸ごとを食らえるように。
その気高さや、やさしさ、
賢さと愛らしさ、生き物としての敬虔さ。
そのすべてを、この身に、
生き写してもらえるように。

わたしがあなたたちを殺さねばならないのなら、
それがおなじ生き物としての、ひとつの誠実で当たり前のふるまいとなる地平で。
まったく平等なるいのちといのちとの、交わりとなる地平で。

それならわたしたちは、断ち切られない。
わたしたちの友愛は、傷つけられない。

わたしがあなたたちを食らっても、
わたしがあなたたちに成るということなら、
あなたたちはつづいていくから。
わたしがつづくのではなくて、
あなたたちとわたしとがつづいていくのだから。
細部の細部まで、わたしはあなたたちと成るのだから。

そう、でも、
今のわたしに、それは叶えられない。
まったくもって、その術がわからない。
だから、わたしは、
あなたたちを食べることができない。

「食肉」という言葉にさえ怯え、
その売り場に近づくことができない。
彼らのいのちを、
つるんときれいにパッケージされた、
彼らの無残な亡骸を、
その悲しみを深い傷を、
どうしてやることもできないから。
そこに泣き崩れるくらいしか、
わたしにはできることがないから。

ごめん。
あなたたちの誇り高いたましいを、
こんなにして、ごめん。

その上、なぐさめられもしないんだ。
だって、こうしたのは私だもの。
まぎれもない、私だもの。
私の意識が、これらすべてを生み出している。
顔むけが、できないよ。
彼らにあわせる顔がない。


そんな風に思ってきた。
20余年の、長いむねの患いだった。




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○ひとは私を泣き虫だというけれど、
それは弱さのあらわれというのではないことを、
私はよく知っている。

悲しいからなみだがこぼれるんじゃない。
落ち込んでいるわけでもない。
くやしなみだというのもちがう。

世界が鳴いているんだ、
それが通過するんだよ体を。

そして内がわから破壊されていく、
いたいし、くるしいし、
なによりそれは、愛なんだ。

いったい何でこんなことが、
わたしの体に起こるかは知らない。

どんな理屈も超えて起こる。
言葉の体系は、解体される。

わたしが居ない。
すべてわたしではない。
他者の塊、
他者の集中、
他者の総体、
そこに意識がある。
はっきりとした、意識が。

世界が鳴いている、
世界が鳴っている。

世界が生っている、
世界が成っている。

その振動に、
その感動に、
わたしもまた、鳴くというだけ。
わたしもまた、鳴るというだけ。

共鳴、それが、
なみだの理由。
なみだの正体。


○遠くはなれて暮らしていても、
こころが繋がっている。
人生をともにしている。

互いにはっきりと、
その実感がある。

というのは、いいなぁ。

そして、そうなんだけれども、
やっぱり時々は、無性に会いたい、
一緒にいて、手をつないでたい。
唄をうたって、わらいころげたい。

というのも、いいなぁ。

心は体の随伴現象ではない、
ということを小林秀雄さんが講演の中でお話になっていた。

密接に関係しあってはいるけれども、
随伴現象ではない。

そう、だから可能なんだ。

身体を突きあわせなくても、
会うということ、
ともに過ごすということ。

けれどもやっぱり、
身体を以て会いたいと思うこと。
会えないことは、さみしいと思うこと。

その両方を、
同時に生きるということ。
そんな関係性を、築いてゆけるということ。

人間は、おもしろい。
いとしい。





○ぬかるみが大すきな子だったよ、
雨の日、
ぐちゃぐちゃになった庭の土を、
素手で、素足で、
もっとぐちゃぐちゃにして、
顔をつっこんで、
泥まみれになって、
げらげら笑ってた。

みみずが出てきて、
踊るもんだから、
うれしくってさ。
手のひらに、
いくつもいくつものっけて、
いっしょに踊ってた。
たのしかったよなぁ。

そしてそのまま、
ぬかるみに伏して、
お昼寝しちゃうの。
泥はあったかかたよ。
それから、
声がしてた。
泥の声。
潮騒みたいなものが、
サァサァときこえて心地よかった。

そういうことしなくなって、
もうずいぶん月日がたっちゃった。

つまんないもんだな。

…いやいや、
またやればいいんだよ。
うん。


○朝、さいしょに目をあけたとき、
「あ、戻ってきた。」
とか、
「あれ、こんどはどこに着いたのかな。」
とか、
思ってた。

昔、目覚めるってのは、たしかそんな経験だった。
つまり、眠りの時間は、旅だったってこと。


○同い年で幼なじみの犬、サチ。
彼女とはこの世で5年くらいをともにしたんだけれど。

わたしが8歳のとき、亡くなった。
同い年だって云ってたのに、
彼女はもうおばあちゃんだったんだって聞かされて、
ほんとうにびっくりしたよ。
理不尽にもおもった。
犬と、人間は、ちがうんだ。

サチの時間と、わたしの時間。
サチのが濃縮してたのか。
より深かったってこと。
だからあんなに、
わたしに優しかったのかもしれない。

玄関のすりガラスに映る、
小麦色のサチのシルエット。
しっぽがふいふいと揺れている。

その光景を、未だにさ、
わたしははっきりと心に映すことができるんだ。
サチの手ごたえ、
まるごと思い出すことができるんだ。
まるでいま、抱き合っているかのように。
まるでいま、その冷たい鼻先で、
キスをくれてるみたいに。


○そうだ。
サチの亡くなった翌年の春、
わたしはサチとよく遊んだ公園のわき道で、
ふたたびサチに会ったんだ。

サチは散歩の途中だった。

「あ、サチ、また後であそぼう。
家にむかえにきてね。」

あんまり普通に居たもんだから、
わたしサチは亡くなったんだってこと、
その瞬間すっかり忘れてしまって、
普通に話しかけちゃった。

でもサチは、
夕方になってもむかえにこなかったから、
「あ、そうだ、サチは居ないはずだよ。」
と気がづいた。

「お母さん、
わたしさっきサチに会ったの。
お散歩してたよ。
サチは居なくなったけど、
ときどき居るんだねぇ。」

母さいしょ不思議そうな顔をして、
すぐににっこりうれしそうに笑ってくれた。


○「人は、上手く思い出さなければならない。」

と、小林秀雄さんはくり返しおっしゃっていた。
わたしも全くそう思う。

人は、上手に思い出さなければならない。
思い出す術を、磨かねばならない。

意識のうちから、
締め出されてしまったおびただしい事々。
私たちが忘れてしまったものの中に、
もっとも大切なものが眠っている。

ひつようなのは、新しいことじゃない。
古い記憶をひもとくことだ。
私たちはすでに、
すべてを持ってる。あたえられてる。

昨日も言ったけれど、
懐古じゃないんだ。

いにしえは、
私たちの「いま」に生きている。
それは、「いま」の深みなんだ。

「いま」を浅く流してちゃだめだ。
垂直に降りる。
力みといて、落ちる。

そうして「いま」の底で私たちを支えてる、
意識から捨てられたおびただしい亡者たちと、
再会を果たそう。

どんなささいなことでもいい。
とるにたらないことが、
むしろ重要だ。

かすかな吐息を、
聞きのがさないように。
己の声を消して。
目のなかの、
目をひらいて。

記憶の淵から、
すくいあげよう。







○風の音が、
ねこの鳴声みたいだ。


○鬼は、いるよ。

わたしたちの、
心の果てに。
いる、
はっきりと。

かなたの闇に、
感ずるでしょう。
目、凝らしてさ、
のぞいてごらん。

ほらね、こう。
手、ふってるでしょ。
みえないけれど、
感ずるでしょう。

かれら、
あんなにコワい顔して、
その実、強い味方なんだよ。

だいじょうぶさ、
委ねてごらん。
こわがらないで、
落ちてごらん。

かれらは最高の、
知性なんだよ。
わたしたちを救う、
智恵のすがたなんだ。


○宗教や信仰は、
あるとかないとかの問題にすり替えちゃったらだめだ。

心が在るってこと、
在る以上は、
信じてるってことだ。
有限の身体に、
超越を抱えてるってこと。


○子どものとき、
床の間にかざってあった壷の中が、
気になってしかたがなかった。

手をいれるのはこわかった。

それでもおそるおそる入れてみて、
底にふれると安心して、
けれどこんどは手がなくなっちゃうんじゃないかとか、
闇に棲むだれかに手をにぎられるんじゃないかとか、
心臓をばくばくいわせながら、
あそんでいた。

壷中天。

そこはもう一つの世界。

そう、
ドラえもんの四次元ポケットってのも、
おんなじかな。

あれは、壷なんだ。
子宮といってもいい。


○風の音が、
こんどは狼の遠吠えにきこえた。



○春雨、というには、
すこしはげしすぎる雨だ。
ざんざんと、降りつづけてる。

遅々としてはかどらない仕事。
深呼吸しても、ごまかせない焦りがあって、
けれども今日は雨の音がある。

無数の雨粒が、
焦りや力みの鎖を、
ぽつぽつと打ち、切り、はらってくれる。


坂口恭平さんをみてると、
なんだか涙がでてくる。
腑が、ふるえて、とまらなくなる。

すごい人だ。


○『定本柳田國男集』全36巻
 芳賀日出男『折口信夫と古代を旅ゆく』
ワタリウム美術館編『驚くべき学びの世界―レッジョ・エミリアの幼児教育』
仙田満『こどもと住まい―50人の建築家の原風景(下)』

注文。

読みきれないでしょう。
でもいいの。要るの。


○メメント・モリ。
死を想え。

というよりむしろ、
死者を想え。

ううん、もっと正しくは、
死者に想われている。
そのことを、
きちんとみとめよ。

死者は実在だ。


○わたしが病に冒され、
死の淵をさまよっていたとき、
寄り添ってくれたちいさな小鳥がいただろう。

彼のちいさな体もまた、
病に冒されていた。

けれども彼は、
けっして歪まない魂のあることを
身をもって教えてくれた。

そのつぶらな黒い瞳は、
いつもぴかぴかに光っていた。

おのれの体の不自由さを、
すべて受け容れて、
平静だった。

わたしの荒れ狂うこころに
みずから飛び込んで、
いつも不動の一点となってくれた。

わたしは彼にささえられながら、
かろうじて生をとどめていた。
そうして彼は、
わたしの病の癒えるころ、
ひっそりと息をひきとった。

憶えているよ。
その日その時刻に、
わたしの居た場所では雷鳴がして、
ベランダに何か小さな生き物が「とん。」と降りたつ音がした。

瞬間に、それは彼だってわかった。
わたしには、はっきりと、そのちいさな両足がみえた。
彼は死に、死者と生り、
そしてふたたび私を守りにきたんだ。

その見えない体をみつめていたら、
彼は一直線にこちらへ羽ばたいて、
右肩にとまり、耳と髪をすこしついばんでから、
心臓めがけて落ちるように飛んだんだ。

彼の鼓動が、わたしの鼓動になった。


○わたしの心臓は、死んだ小鳥です。
彼が生きているので、
わたしが生きています。

潰えそうな夜、
ひとりぽっちでいると、
彼の羽がふわりと頬にあたる。
いま、肩に止まってる。
その一点が、温かい。

「錦ちゃん。」
そっと名をよび、
耳をちかづけると、
すこしくぐもった声でこたえてくれる。

悲哀があふれる。

錦ちゃんへの。
錦ちゃんとともに生きている私への。

わたしたちは一緒に生きている。

それはひそやかなこと。
けれどそれこそが生の秘密。
わたしたちの生をささえているものの姿。

死者の力が、わたしたちを生かしている。


○若松英輔さんの
『魂にふれる―大震災と、生きている死者』は、
そういった内容だった。

わたしが民俗学をまなびたい、
とおもう最大の理由は、「死者」との交流のすべをとりもどしたい、
という一点にあるのではないか。

この本を読んでいて、そう思った。

「死者」はときに、
「夢」となり、
「思い出」となり、
「未来」となり、
「兆し」となり、
「鏡」となり、
「音」となり、
「うた」となり、
「色」となり、
「木」となり、
「石」となり、
「風」となり、
「夕日」となり、
「月」となり、
「風土」となり、
「闇」となり、
「幽霊」となり、
「無意識」となり、
「心」となり、
「神話」となり、
「イマジネーション」となる。

それらと出会い、
その声を、聴きとるのだ。

「児童の言語生態研究会」は、
民俗学(とくに心意伝承学)に学びながら、
40年来、それを学校教育のなかで実践してきた。

だから、こんなにも私は惹かれて、
彼らの実践をしっかりと研究していこうとしているんだろう。

どんな言葉になったっていい。

人がみずからを生き抜くということにとって、
「死者」の実在を想い、感じることがいかに大切かということを、
伝えていかなければならない。

なにも特別なことじゃない。
生きていく人間に、あたりまえの事実だ。
けれどそれは変にたわめられて、
素直に出せないようになっている。
素直にみとめられないようになっている。

とくに、「教育」の名の下においては。

「死者」にいだかれた生のつよさ。
それを根っことしてのびゆく教育学がひつようだ。
「児童の言語生態研究会」は、
そのことをはっきりと意識して教育にのぞんだ、
まことに稀有な存在であると思う。

いま私は、
ともに彼らの研究をひもといて、
こどもたちと遊んでくれる人を、切実に求めています。


○レッジョ・エミリアの幼児教育の本に、
実践の見せ方を学ぼうとおもう。

「児童の言語生態研究会」の授業実践。
絵本ができたらいいのにって、ずっと思ってるんだ。

40年を超える実践記録。
さぁ、この宝の山を、
どうやってみなの財産としてゆくか。


○雨粒のささやきもまた、
「死者」の声である。

話がとんだところまで来ちゃった、な。


○すこし落ち着いて。今日のごはんメモ。

朝、雑穀入り三分搗きごはん、さばの味噌煮、お味噌汁
お十時、梅ジャムと干し葡萄のぱん
昼、ごぼう天うどん
お三時、あんぱん、八朔
夜、雑穀入り三分搗きごはん、南瓜と鳥そぼろの煮物、
   ひじきの煮物、鯵のひらき、お味噌汁

ただいま実家で、すべて母作。
ありがたう、頭があがりません。


○まい度のことながら、
なんと内容にまとまりのないブログだろうか。

どうか、みなさんの堪忍袋の緒が、
切れちゃいませんように。

あいすみません。







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