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秦きょうこ
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非公開
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語り部。作家。
「むすびの文庫」と「ふゆる座」を主催しています。

いろいろのお問い合わせは、こちらまで。
上映会のご希望なども、お気軽にどうぞ。

musubino.huyuru@gmail.com
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○5月20日(日)、
「語る者、継ぐ者ー姫田忠義VS深谷勇次郎対話&上映会」
に参加してまいりました。

場所は名古屋の南生協医療病院。
姫田さんは、民族文化映像研究所の所長さん。
深谷さんは、
民族文化映像研究所の上映会を長年運営されてこられた方。

開催のきっかけとなったのが、
こちらの一通の手紙。
実行委員の小早川喬さんが、
深谷さんに宛てたもの。

+++++++++++++++++++++++++++++++++
深谷勇次郎 様
「ちょっとした感想にて」 2012年4月3日

只今は貴殿と会うこと叶わぬので、まずは手紙にて。
姫田さんに電話したら、なんともう2ヶ月も入院とのことでありました。
どうも肺の方らしいが、二人は仲良しということらしい。
ところで、仲良くあの世に行ってしまわれては、これは大変困るのだな。
姫田さんはまじめに基層文化を考えて来たし、貴殿はふまじめにこれを考えて来た。
いずれにせよそれは、人類の「還り来たるべきところ」は何なのか、ということではないのか。
思うに「祈り」なんだろうな、それは。
人間なんぞせいぜい、祈ることぐらいしか能はないということでもあるのかな。
(中略)
ま、とにかく、今ほど「還るべき場所」が明らかになりつつある時はないように思えます。
二人とも気息奄々で今更偽善も嘘も修飾もしようもなく、
何を言おうと貴殿と姫田さんのことだまは、光芒を放つというわけだ。
私はこれを必ずやる。それまではあらゆる手段を駆使し、生き延びるべし。
ただひたすら、万物に祈り続けるべし。
以上、小早川からの命令である。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

案内に転載してあったこの手紙をよんで、
むねが切なく、あたたかくなって、
名古屋へ行こうとおもった。


○姫田さんと久しぶりにお会いした。
大切な知人、友人たちにも。

みなと一緒にわらったり泣いたりしていると、
今年やらなければならないことがくっきりと見えてきた。
勤めを辞めたことの意味も。

これは命の運ばれなのだ、
運命なんだ。
さぁ、もういいかげん、従おうよ君。
とじぶんに語り、覚悟した。


○語る者、継ぐ者。

人はそのいずれでもある。

何を語り、何を継ぎたい?

たった一つの小さなからだで。

無限の志をむねにひめて。


○姫田さんのわずかな語り。
限られた言葉は、しかしとんでもなく大きなものを指していた。

「宇宙 歳月 の 波動 の めぐり。
 と いうことを 感じます。
 生命 の すべて が 波動している。と。」

姫田さんのそばを、
片時もはなれたくなかった。
ずっとそばにいて、
耳をかたむけていたかった。


○じぶんの人生、であることを忘れることだ。
だれかの人生の、ひつようを満たす。
それだけに照準をしぼろう。

でも誰彼かまわずってわけにはいかない。
体は弱く小こいし、時間だっておおくはない。
だから見定める。
じぶんがどこの歯車を担うのか。
だれに添い、だれの命を叶えたいのか。


○友人と熱田神宮の杜をあるき、
きよめ餅屋でお茶をして、
商店街でお好み焼きをつついた。

いろいろの話の末に、
だいじな約束をして別れた。

ふたりで本をつくる。

そういう約束。
すでに作業ははじまっている。


○あしなが蜂の足。
ぶらーとたれて、おもしろい。
ぷらー、ぷらー、
庭にたくさん飛んでいる。

蟻んこの足もすごい。
飛ぶように走る。
あんなにスピード出してるのに、
方向転換もうまいんだ。

だんご虫の足は多すぎる。
多すぎて観察の目が追っつかない。
あんなにいっぱい、
どうやって操ってるのかね。
こっちは見てるだけで目が回っちまうというのに。

青虫の足はほんのぽっちり突きでてるだけ。
でもどこでも這える。逆さまにもなれる。
この後さなぎになって、見違えるような足になる。

植物の葦は、沼地から生える。
『古事記』の冒頭に、
「葦牙(あしかび)のごとく生れる神の名は」ってあったな、確か。

古い言葉なんだなぁ、「あし」。







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○こんばんはー。
ふゆる座、ほん年初しごと。
さくじつ佐賀県唐津市へ行ってまいりました。

あいにくの空模様でございましたが、
おかげさまでとてもよい会になりました。
おいでくださったみなさま、
関係者のみなさま、
まことにありがとうございました。


○What is "げすとすぴーかー" ?

事前にふかくかんがえないのは、
ほんとうにわるい癖だ。

「自己紹介をしてください。30分くらい。」

と、云われて、白髪になるかとおもった。
が、すぐに「あ、わたしお喋りな人やった。」ときづき、
平静になる。だいじょうぶ。

上映のあと、
『茂庭のしなだ織』と
「女性性」、「女性未来学」ということとを、
どんな視点がつないでゆくだろう、
わたしを通して何が語りだすだろう、
と、たのしみに待った。

みんなのあたたかい眼ざしにつつまれて、
記憶の底からたいせつなことばが
ぷわぷわと噴くようによみがえってきて、
わたしはただ、
できるだけていねいに、ていねいに、
つむいでいった。

音ならぬ音。
声ならぬ声。
それを聴きとどけようと、
虚空にすます、耳。
その意志が、
未生のことばを産ましむるのだね。

みんなはさながらお産婆さんで、
おかげで母子ともに健康に、
会を終えることができた。
ほんとうにありがたかった。



○「女性性」とは、

一つ、言語化、数値化できないもの。

すなわち、値段がつけられないもの。
商品にならないもの。
つねに社会的な価値の外にあって、
おかげで、結果的に「無価値」なものとして、
ないがしろにされてしまいやすいもの。
実際に、そうされてきたもの。

けれどもほんとうは、
この世の背後で、力を、いのちを、
産みつづけているもの。

宇宙そのもの。
大きすぎてみえないもの。
つつまれているゆえに、
すべてを見渡せないもの。

数字によっても、
言語によっても、
永遠にきりとることのできないもの。

ただ、直観によってのみ、
それを全的に知りうるもの。


また、一つ。
それは、むすぶもの。
個々別々のすきまを、
ひたひたとひたすもの。

断絶を縫って流れ、
すべてをつないでゆくもの。

切り裂かれても、
切り裂かれても、
くりかえしひとつになろうとする、
全きものに還ろうとする、
ちょっとばけものじみたもの。

愛。
その力。
人類共通の、意志。


○また、一つ。
壮大であるけれど、
とるにたらぬものとして、
この世に現れるもの。

たとえば、絵本として。
たとえば、キノコとして。
たとえば、水たまりとして。
たとえば、お饅頭をふかす湯気として。
たとえば、揺れるブランコとして。
たとえば、板塀の節穴として。
たとえば、巨木の洞として。
たとえば、朽ちかけた橋として。
たとえば、風にそよぐ髪として。
たとえば、海底にゆれる海草として。
たとえば、一この廃屋として。
たとえば、夏の幽霊話として。
たとえば、沈む夕日として。
たとえば、老翁の後姿として。
たとえば、老婆の手の熱として。

たとえば、たとえば、
切りなくつづく、
己のいのちを、
ふるわし、おこす、
数かぎりない、なにかとして。
その集積として。


また、一つ。
森羅万象。
アニミズムとも、
密接な関係にあるもの。
唯物論とも、
密接な関係にあるもの。

天地有情。
この世をそう感じる、
感性そのもの。


○また、一つ。
懐かしいもの。
ふるさとを感じるもの。
心休まるもの。
あたたかいもの。

ふかい眠り。
あるいは死もまた。
死者もまた。


また、一つ。
円いもの。
流れるもの。
止まず変わりつづけるもの。
おぼろなもの。
あえかなもの。
太陽より、月。
日光より、月光。
皮膜のむこうにぼんやりと透ける、
すこしこわくさえあるもの。

「女性性」とは、なんだろう。



○3冊の本を、持ってくるよう仰せがあって。

・斉藤たま『野あそび』
・幸田文『父・こんなこと』
・中沢新一『女は存在しない』

を持っていった。

それぞれ「女性性」という観点から、
すこしずつご紹介させていただいた。

大すきな本たちです。



○書ききれないので、
いちど筆をおきます。

メモ書きみたよで、
ごめんなさい。
ちょっとひどいな、と、
読みかえして青くなったのですが。

しかし、あつかましく、
そのまま投稿。

ご勘弁くださいまし。




「民族文化映像研究所」の通信に、

「ふゆる座」の上映会のレポートを掲載していただきました。

すべての上映会についてレポートをしたかったのですが、

誌面のつごうで、ひとつの会のみとりあげることになりました。

が、

こちらで書かせていただいたことは、すべてに通じていることです。

ひとつ、ひとつ、ほんとうに豊かな時間でした。

あらためて、ご協力くださったみなさま、観にいらしてくれたみなさまに、

感謝の辞をのべたいとおもいます。

どうもありがとうございました!


せっかくですので、「民映研通信」より、

わたしの文章のみ、こちらに転載させていただきますね。

お読みくださるとうれしいです。


*********************************
 
○はじめに―「ふゆる座」のこと。

はじめまして。ふゆる座の代表をしております、秦きょうこと申します。

「ふゆる座」とは、一ことで申しまして、先人たちの思いがあつまり宿る場処、その思いが形とるための小さな発足地であります。

「ふゆ」、「ふる」という古の音、生命やたましいの増殖や甦りの儀礼をいみするこの音を名とし、祖々より伝う心、ちえに触れること、それをみずからの内に回復してゆくことを志して、活動をしております。

それはまた、この身体と、その拠ってたつ風土とを、しっかりとむすんでゆこうというこころみでもあります。

そしてその中心に、わたしたちは、「民族文化映像研究所」作品の上映会をおいて活動しております。


 
○上映会のご報告。

わたしは、かねてより「民族文化映像研究所」の作品をみるのが大変に好きでした。

東京にくらした時分には、フィルムに記憶されているあの世界に会いたくて、研究所へ足しげく通ったものです。

そのときはただそのままにあればよかったのですが、上映会をひらくためには、そこからもうひとつ思考の根をおろさなければなりません。

なぜ、みなと見たいのか。そこに何が生まれることを希うのか――。

 「民族文化映像研究所」の方々が録りつづけてきた、農山漁村に暮らす人々のいとなみ。

それは、北九州の町にそだった私には、まったく未知のもの、未経験のものばかりです。

そんなわたしが、あいかわらず町に住みながら、おなじように暮らす人びととともに、記録フィルムを見る。

そこに、いったいどんな創造の可能性があるのだろう。

記録を、そこに映る人びとの生きる姿を、ただ一時の気分として消費するのではなくて。

そこからわたしは、何をはじめることができるのだろう。

そんな問いにすら明瞭なこたえをもたない曖昧なわたしに、けれども多くの方々が力をくださり、この夏いくつかの上映会が実現いたしました。

そのなかで、この問いにたいする一つのこたえともいえるちいさなやりとりがありました。


 2011年8月6日(土)、福岡市東区箱崎にある「箱崎水族舘喫茶室」にて、『奥茂庭―摺上川の流れとともに』を上映させていただいたときのこと。

上映後にトークセッションをもち、わたしたちはさまざまに話題をひろげてお話をしました。

そして最後に会場の方にことばを求めました際、いらしていた盲目の方がこのようなことを仰ってくださいました。

「私はみなさんのように見えませんし、むずかしい話もわからないのですが、ただ水の音がきれいだなぁとおもってみておりました。そして、幼いころのお祭りのことを、懐かしく思いだしておりました。」

わたしはそのことばにハッとしました。

わたしたち目のみえる者が、映像をみつめていた間、きっとその方の耳には、ただ清らかな水の流れが聴こえていたにちがいない。

人びとの立ち働く音も、あそぶ声も、草木のざわめきも、生きものたちの息づかいも、すべてはその絶え間なくつづくうつくしい音の内にあるのを聞かれていたにちがいない。

「摺上川の流れとともに」。この副題の指していることを、その方がそのままにつかんで、わたしに教えてくださいました。

また、時代によって断たれたもの、忘れられていたものが、フィルムを通してひとりの胸の内にふたたび息をふきかえすということ。

その記憶をみなでうけとり、追憶をともにたどり、遡ってゆくこと。

大切なものが、個をつらぬいてよみがえり、人をつよく結んでゆく。

わたしは上映会を通して、それをこそ多くの方々とともにしてゆきたいのだと、気づかされたのでした。

「民族文化映像研究所」の映像記録は、それをこころみるのに最良のものです。

わたしは今あらためて貴重に思い、未来へのバトンとして大事に受けとめています。



 
○おしまいに

「ふゆる座」の活動は、まだほんとうに小さく、たよりのないものです。

ご興味をもってくださる方がございましたら、ぜひお声をかけてください。

たくさんの方々に、手をとって教えていただきながら、あちこちで、いろんな色とかたちで、身を、実を、むすんでゆけたらと思っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

          「ふゆる座」代表 秦きょうこ


 
+「ふゆる座」その他のカタチ+

・「玄米ムスビの会」+「ふゆる菓子店」
(土地よりいただいたものを丁寧に料り、食べることを通して。)

・「生活の古典」を伝える「もの語り」+叢書の製作
(折口信夫の書物をひもときながら、ことばと語りを通して。)

Mail: musubino.huyuru@gmail.com

Blog: http://huyuru.blog.shinobi.jp/


*********************************

さあ、つぎの上映会にむけて、

歩いてゆかなくちゃ。



みなさまどうぞ、よろしくお願いいたします。

みなさま。

こんにちは。秦きょうこです。
まいにち暑い。
日の高いうちは、蔭をさがしてこそこそ生きております。
みなさまとこの夏は、いかがですか。

わたしの住む町には老舗の和菓子屋さんがあって、
夏にはかき氷をしてくれます。
ふるい大きなかき氷の器械から、
細雪のようにふわふわの氷がおりてくる。
あんまり好きになって、
このごろふつかに一ぺんくらい、通っています。

宇治抹茶+金時。
みぞれ+練乳。
ミルクセーキ。

たくさん選べますが、このごろはこの3つを日替わりでおねがいしています。
どれも、おいしい。とくに、宇治金時。
お抹茶たてて、ほんとにたっぷりかけてくれます。
にがくて、餡子ととてもよく合います。
帆柱山からおりてくる涼しい風にふかれながら、
おおきな枇杷の木陰でさくさくといい音させてたべる。
夏って、いいな。

さて!
すっかり遅くなってしまいましたが、
「甑島のトシドン」in中村さんちの縁市(2011.7.31)上映会のご報告です。

はじめての上映会でまごまごしっぱなしでしたが、
忙しいなかてきぱきと準備をしてくださった和草の石米さん、縁市スタッフの方々のおかげで、
なんとかぶじに終えることができました。まことにありがとうございました。

そして、応援にきてくださった旦過市場の大學堂関係の方々!
みなさんがいなかったら、とおもうと、冷や汗がでます。
ほんとに何からなにまで、ありがとうございました。
こんどはぜひ大學堂の2階で、上映会しましょうね!

むすびの文庫のお客さまも、はるばるおいでくださいました。
あわあわとして、ゆっくりお話できませんでしたが、
またどこかでお会いしました折に、ご感想たくさんお聞かせくださいまし。

「甑島のトシドン」(1979)。
ごらんになった皆さま、いかがでしたでしょうか。
「お天道さまはお見通し」。
の、「お天道さま」のような内なる神さまを、
いまは地域社会のなかで育んでゆくのがむずかしい時代かもしれません。
でも、わたしは「トシドン」を慕わしくおもう。
この胸に、ほしいなぁとおもう。

郷土より生じ、郷土にて伝う、人をこえたもの。
人をこえて人を律し、人をみちびくもの。

どこかのよく知らない神さまなんかじゃなくて。
この足下の土から生えた神さま。
やたらこわくて、ちゃんとやさしい。
わたしたちの生命を知っててくれて、
手はとどかないけれど、いつも在る場処で、
見守り、そして、ときに降りてきてくれる。

トシドンはいのちとともに、いのちの継承とともに、
ずっと生きてゆくんだろうなぁ。

会の後、何人かの方々と、そんなお話をいたしました。

さいしょの上映会。
たくさん反省もありますが、とても幸福なじかんをすごすことができました。
みなさま、どうもありがとうございました。

ちかいうち、
「奥茂庭―摺上川の流れとともに」in箱崎水族舘喫茶室(2011.8.6)
のご報告もしたいとおもいます。

あすから、御盆。
ご先祖様も、精霊たちも、
浪の穂ふんで、おかえりです。
おおきな再会の環。
くるり、くるり、踊りましょう。


ふゆる座○。秦きょうこ



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