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語り部。作家。
「むすびの文庫」と「ふゆる座」を主催しています。

いろいろのお問い合わせは、こちらまで。
上映会のご希望なども、お気軽にどうぞ。

musubino.huyuru@gmail.com
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○とらうま。
って書くとちょっとかわいい。
虎馬。虎っぽい馬。
虎柄の馬。

まあ、そんなことはどうでもいいんだけれど。


○PTSD。解離性障害。
と、その周辺のいろいろについて、
友人とはなし合いをしました。

この障害のしめす症状については、
わたしは数年前に『たましずめのうた』のなかに
少しだけ書いたのですが、
やはり今でも時おり、どうしようもなくなることがあります。

きほん的には、ひたかくしに隠しているので、
ごく近く接してくださっている方々をのぞいては、
めったに人にしられることはありません。

が、この「ひたかくしに隠している」という状態が、
そういいことばかりでもないなぁということを、
この頃すこしずつ思うようになり、
もう何年も真摯にかかえてきたものだし、
じぶんなりに勉強もかさねてきたのだから、
ちっぽけに閉じずに、そっとひらいてみよう、
こわごわ皆に、渡してみよう、
という心持ちになってきました。

ここに書くにはむずかしい内容もおおいので、
本、というかたちで実をむすんでゆけたらと、
友人と手をとり作業をはじめたところです。

ヒガイシャ――。

そう、
わたしたちは、
この焦土から、
清い風をおこしたい。

抑圧の傷をとき、
とほうもない慈悲へと吹きぬける、
細くつめたく澄んだ風。

いつかその風を産み、
わたしたちは、
こころの底からにっこりとしたい。

そして、
産むちからを冒涜されたかなしみから、
いっそう高次の母性をみちびきたい。

どうか、その道が守られますように。
どうか、その意志があらゆる恨(ハン)を砕きますように。




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○かなしみは尽きないが、
このせかいには蛍のひかりがある。

蛍のひかりによりそわれて、
ようやくおちるなみだがある。
ようやくこぼれる愛がある。


○夜の川辺にうずくまるわたしに、
一匹の蛍がとまってくれた。

それだけで十分。
それだけで、十分。
生きてくのに十分な、こころづよさよ。

蛍に、恋を、してしまったかな。


○小さな鶴が、
20cmほどの丹頂鶴が、ゆめに出てきた。

ぱたぱたぱたと飛んできて、
目のまえに舞い降りてきた。
かわいいっと声にだしてよろこぶ間もなく、
いっしょに居た友人がふざけてえいっと小鶴さんをつかんじゃった。

ちょっとなにすんのよって、
怒りかけたんだけど、小鶴さんはなんのその。
友人の手をするりとぬけて、
ぱたぱたぱた。

羽をひろげてゆっくりたかく昇っていく。
たかく、たかく。
ふるえるような、繊細なはばたき。
きらきらと、高音。
それにしたがって、両のはねが、
まるで藤の花弁のようにだんだんと長く下がってくる。

その美しいことったら!

うわぁとながめるうちに、
小鶴さんは降りてきた夕闇のなかへ、
どんどんと小さくなりながら、とけていく。
もう影はみえない。
でも羽の一片一片が蛍のように光り、
それだけが闇にうかびあがって見える。

きれい、きれい!

ついに、それさえ見えなくなって、
あぁなんてものを、わたしは見ちゃったんだろうかって、
そう思ったとき、

「あ!」

と、わかった。

そうだ、あれは、亡くなった親友だったんだ。
そうだよ彼女のたましいだった。
それであんなに美しかった。
それであんなに繊月のようだった。

彼女に会えたことが、
目ざめてからもとてもうれしくて、
わたしはやっぱり彼女のことが大すきだとおもった。


○ゆめの中でわたしはオオカミになった。

それで森のほそい一本道を、
なんどもなんども雑巾がけしたんだ。

オオカミだと雑巾がけはとてもはかどる。
ってことがわかった。

毛はなかなかに剛くて、
走るとその一ぽん一ぽんが、
針のようになびいた。

われながら、かっこよかった。


○蛍よ、蛍。
汝らはそのみじかい命のうちに、
幾千の人をなぐさめ、
幾万のたましいを鎮めるのか。

蛍よ、蛍。
汝らはわらうかもしれぬが、
わたしはそなた達の亡骸を、
やはりなぐさめ鎮め、だいじにしたい。

来年もまた、ここで会おうぞ。
来年もまた、ここに会おうぞ。



○いま、こころみているのは、
忘却のかなたへのアプローチ。

忘れなければ生きていられなかったこと。
しかし忘却のかなたへ堆積されてゆくことで、
その実いのちの基層をきずいていたできごとについて。

対立でもなく、いどむというのでもない態度をもって、
いま、あらためて、みつめてみたい。

そのために、からだを空けよう。
このからだを、開放しよう。
わたしの現在を、過去にあげよう。

現在というこの時のうちに、
くらい地下道をながれ、くぐってきたあの過去のできごとが、
しずかによみがえりを果たしますように。

それが、ほんとうの歩むべき道を、
ひらいてくれることを願って。


○そんな作業を、友人とはじめました。

ある種の記憶、
それを切り捨てること隠すことで、
すずしく生きてきた。

大きな裁ちばさみをふりかざして、
押しよせる記憶の波を、ばちんばちん。
裁ちつづけていて、
気がついたら、
記憶とつながることができなくなっていた。
ふさいだのだ、じぶんで。
そこへつづく通路を。

それはけっしてネガティブなことではなかった。
もちろんポジティブなことでもなかった。
ようするに、そうした短絡的なものさしとは、
まったく次元を異にしていて。
生き延びるためにその方法をとりながら、
それなりにきまじめに日々を重ねてきた、
という、ただそれだけのこと。
いいもわるいもない。
いっさいの評価は当たらない。

そう、ただ、
先日わたしの前に、古い友人が現われて、
そうした態度をかえ、
もっと全的にいきようとする、その可能性を示してくれた。
だから、
とことんつき合うことにしたのだ。


○「抑圧された女たちが集まって
恨を解きほぐす一つの儀式をあげること、
クッという儀式、朝鮮での巫祭を指すクッという儀式を通して
死者の魂やいま生きている自分の記憶を癒す、
それは恨を解く儀式につながるが、
この自分の記憶はぎりぎりのところで生につながっている忘却であり、
その生と死の境界域で癒しの巫祭(クッ)が行われることになるだろう。
一つのシャーマンの空間。
それは忘却からの再生であり、
怨恨を晴らすのとは違う、
自らの恨みを解き恨を超えた共生への道程である。
シンボル化されたハルモニから、
さらに抑圧された側からの抱擁、
大きく包み抱いてともに生きる道への祈り。
(中略)
ハルモニたちのぎりぎりに死に近い忘却は
幽冥の夜明けでのクッ―恨のときほぐし―とともに
蘇えり、化石化状態の記憶は現生の生へ蘇える。」

なにか、そうしたこと。
そうしたことがおこることを、
希いつつ、希いつつ、
私たちは「忘却」へのアプローチを、
はじめてみたのです。

「抑圧された側からの抱擁」。

自らの「恨」をときほぐし、
「ともに生きる道への祈り」へとたかめる。
そんなアクロバティックないのちの転換。

そのプロセスは理屈ではもう分かってる。
けれどからだは置いてかれてる。
感情も凍結したままだ。

だからこれから、
存在のまるごとをかけて、
そのプロセスをさがしてみたい。
そのプロセスを生きてみたい。

そんな風に、ちょっとだけまじめに、
かんがえたりしている。









○5月20日(日)、
「語る者、継ぐ者ー姫田忠義VS深谷勇次郎対話&上映会」
に参加してまいりました。

場所は名古屋の南生協医療病院。
姫田さんは、民族文化映像研究所の所長さん。
深谷さんは、
民族文化映像研究所の上映会を長年運営されてこられた方。

開催のきっかけとなったのが、
こちらの一通の手紙。
実行委員の小早川喬さんが、
深谷さんに宛てたもの。

+++++++++++++++++++++++++++++++++
深谷勇次郎 様
「ちょっとした感想にて」 2012年4月3日

只今は貴殿と会うこと叶わぬので、まずは手紙にて。
姫田さんに電話したら、なんともう2ヶ月も入院とのことでありました。
どうも肺の方らしいが、二人は仲良しということらしい。
ところで、仲良くあの世に行ってしまわれては、これは大変困るのだな。
姫田さんはまじめに基層文化を考えて来たし、貴殿はふまじめにこれを考えて来た。
いずれにせよそれは、人類の「還り来たるべきところ」は何なのか、ということではないのか。
思うに「祈り」なんだろうな、それは。
人間なんぞせいぜい、祈ることぐらいしか能はないということでもあるのかな。
(中略)
ま、とにかく、今ほど「還るべき場所」が明らかになりつつある時はないように思えます。
二人とも気息奄々で今更偽善も嘘も修飾もしようもなく、
何を言おうと貴殿と姫田さんのことだまは、光芒を放つというわけだ。
私はこれを必ずやる。それまではあらゆる手段を駆使し、生き延びるべし。
ただひたすら、万物に祈り続けるべし。
以上、小早川からの命令である。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

案内に転載してあったこの手紙をよんで、
むねが切なく、あたたかくなって、
名古屋へ行こうとおもった。


○姫田さんと久しぶりにお会いした。
大切な知人、友人たちにも。

みなと一緒にわらったり泣いたりしていると、
今年やらなければならないことがくっきりと見えてきた。
勤めを辞めたことの意味も。

これは命の運ばれなのだ、
運命なんだ。
さぁ、もういいかげん、従おうよ君。
とじぶんに語り、覚悟した。


○語る者、継ぐ者。

人はそのいずれでもある。

何を語り、何を継ぎたい?

たった一つの小さなからだで。

無限の志をむねにひめて。


○姫田さんのわずかな語り。
限られた言葉は、しかしとんでもなく大きなものを指していた。

「宇宙 歳月 の 波動 の めぐり。
 と いうことを 感じます。
 生命 の すべて が 波動している。と。」

姫田さんのそばを、
片時もはなれたくなかった。
ずっとそばにいて、
耳をかたむけていたかった。


○じぶんの人生、であることを忘れることだ。
だれかの人生の、ひつようを満たす。
それだけに照準をしぼろう。

でも誰彼かまわずってわけにはいかない。
体は弱く小こいし、時間だっておおくはない。
だから見定める。
じぶんがどこの歯車を担うのか。
だれに添い、だれの命を叶えたいのか。


○友人と熱田神宮の杜をあるき、
きよめ餅屋でお茶をして、
商店街でお好み焼きをつついた。

いろいろの話の末に、
だいじな約束をして別れた。

ふたりで本をつくる。

そういう約束。
すでに作業ははじまっている。


○あしなが蜂の足。
ぶらーとたれて、おもしろい。
ぷらー、ぷらー、
庭にたくさん飛んでいる。

蟻んこの足もすごい。
飛ぶように走る。
あんなにスピード出してるのに、
方向転換もうまいんだ。

だんご虫の足は多すぎる。
多すぎて観察の目が追っつかない。
あんなにいっぱい、
どうやって操ってるのかね。
こっちは見てるだけで目が回っちまうというのに。

青虫の足はほんのぽっちり突きでてるだけ。
でもどこでも這える。逆さまにもなれる。
この後さなぎになって、見違えるような足になる。

植物の葦は、沼地から生える。
『古事記』の冒頭に、
「葦牙(あしかび)のごとく生れる神の名は」ってあったな、確か。

古い言葉なんだなぁ、「あし」。







○ひらがなを頼みにしている。
さいごには絶対に、ひらがなでしか叶えられないところに行き着く。
心を降りていくと。

ひらがなは、ほんとうは、文字なんかじゃない。
音そのもの、
声そのもの。
だから、文字のようでいて、文字ではないの。
書いたってほどける。
いくら書いても、
とけて、消える。
それがほんとう。
ひらがなの、ほんとう。
ほんとうの、力。

弱いということ、
はかないということ、
それによってひらがなは、
かえって私たちの胸につよくのこる。

ふっと結ばれ、
あっという間に朧に帰した、
その面影。
ひらがなによってようやく掬いとられ、
この世に表されたそのかすかなもの。
それが私たちを惹きつけつづける。
とんでもない持続力をもって。

虚実の皮膜にゆれるひらがな。
それによってしか語りえない思いがある。
漢字ではにごってしまう意味がある。
霧のなかから出ることなく、
湿度のまま、くぐもりのまま、
こおんと響く声がいる。
内に響く、ひめられた声がいる。


○ひらがなを頼みに、
書きはじめたいことがある。

うばわれた言葉。
うばわれた、声、
について。

ううん、より正しくは、
はじめから言葉をうばわれているところで、
おこった出来事について。
言葉のおくで、いたんでいる声について。

その声を、逃がす。
言葉にせずに、解放をする。
言葉をもちいながら、
とらえない、ふさがない。
言葉によって水路をひらく。

さぁ、ここを通って!
海へ!

そういうことを、
試みようとおもっている。


 

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