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秦きょうこ
性別:
非公開
自己紹介:
語り部。作家。
「むすびの文庫」と「ふゆる座」を主催しています。

いろいろのお問い合わせは、こちらまで。
上映会のご希望なども、お気軽にどうぞ。

musubino.huyuru@gmail.com
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○ひとは私を泣き虫だというけれど、
それは弱さのあらわれというのではないことを、
私はよく知っている。

悲しいからなみだがこぼれるんじゃない。
落ち込んでいるわけでもない。
くやしなみだというのもちがう。

世界が鳴いているんだ、
それが通過するんだよ体を。

そして内がわから破壊されていく、
いたいし、くるしいし、
なによりそれは、愛なんだ。

いったい何でこんなことが、
わたしの体に起こるかは知らない。

どんな理屈も超えて起こる。
言葉の体系は、解体される。

わたしが居ない。
すべてわたしではない。
他者の塊、
他者の集中、
他者の総体、
そこに意識がある。
はっきりとした、意識が。

世界が鳴いている、
世界が鳴っている。

世界が生っている、
世界が成っている。

その振動に、
その感動に、
わたしもまた、鳴くというだけ。
わたしもまた、鳴るというだけ。

共鳴、それが、
なみだの理由。
なみだの正体。


○遠くはなれて暮らしていても、
こころが繋がっている。
人生をともにしている。

互いにはっきりと、
その実感がある。

というのは、いいなぁ。

そして、そうなんだけれども、
やっぱり時々は、無性に会いたい、
一緒にいて、手をつないでたい。
唄をうたって、わらいころげたい。

というのも、いいなぁ。

心は体の随伴現象ではない、
ということを小林秀雄さんが講演の中でお話になっていた。

密接に関係しあってはいるけれども、
随伴現象ではない。

そう、だから可能なんだ。

身体を突きあわせなくても、
会うということ、
ともに過ごすということ。

けれどもやっぱり、
身体を以て会いたいと思うこと。
会えないことは、さみしいと思うこと。

その両方を、
同時に生きるということ。
そんな関係性を、築いてゆけるということ。

人間は、おもしろい。
いとしい。





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○ぬかるみが大すきな子だったよ、
雨の日、
ぐちゃぐちゃになった庭の土を、
素手で、素足で、
もっとぐちゃぐちゃにして、
顔をつっこんで、
泥まみれになって、
げらげら笑ってた。

みみずが出てきて、
踊るもんだから、
うれしくってさ。
手のひらに、
いくつもいくつものっけて、
いっしょに踊ってた。
たのしかったよなぁ。

そしてそのまま、
ぬかるみに伏して、
お昼寝しちゃうの。
泥はあったかかたよ。
それから、
声がしてた。
泥の声。
潮騒みたいなものが、
サァサァときこえて心地よかった。

そういうことしなくなって、
もうずいぶん月日がたっちゃった。

つまんないもんだな。

…いやいや、
またやればいいんだよ。
うん。


○朝、さいしょに目をあけたとき、
「あ、戻ってきた。」
とか、
「あれ、こんどはどこに着いたのかな。」
とか、
思ってた。

昔、目覚めるってのは、たしかそんな経験だった。
つまり、眠りの時間は、旅だったってこと。


○同い年で幼なじみの犬、サチ。
彼女とはこの世で5年くらいをともにしたんだけれど。

わたしが8歳のとき、亡くなった。
同い年だって云ってたのに、
彼女はもうおばあちゃんだったんだって聞かされて、
ほんとうにびっくりしたよ。
理不尽にもおもった。
犬と、人間は、ちがうんだ。

サチの時間と、わたしの時間。
サチのが濃縮してたのか。
より深かったってこと。
だからあんなに、
わたしに優しかったのかもしれない。

玄関のすりガラスに映る、
小麦色のサチのシルエット。
しっぽがふいふいと揺れている。

その光景を、未だにさ、
わたしははっきりと心に映すことができるんだ。
サチの手ごたえ、
まるごと思い出すことができるんだ。
まるでいま、抱き合っているかのように。
まるでいま、その冷たい鼻先で、
キスをくれてるみたいに。


○そうだ。
サチの亡くなった翌年の春、
わたしはサチとよく遊んだ公園のわき道で、
ふたたびサチに会ったんだ。

サチは散歩の途中だった。

「あ、サチ、また後であそぼう。
家にむかえにきてね。」

あんまり普通に居たもんだから、
わたしサチは亡くなったんだってこと、
その瞬間すっかり忘れてしまって、
普通に話しかけちゃった。

でもサチは、
夕方になってもむかえにこなかったから、
「あ、そうだ、サチは居ないはずだよ。」
と気がづいた。

「お母さん、
わたしさっきサチに会ったの。
お散歩してたよ。
サチは居なくなったけど、
ときどき居るんだねぇ。」

母さいしょ不思議そうな顔をして、
すぐににっこりうれしそうに笑ってくれた。


○「人は、上手く思い出さなければならない。」

と、小林秀雄さんはくり返しおっしゃっていた。
わたしも全くそう思う。

人は、上手に思い出さなければならない。
思い出す術を、磨かねばならない。

意識のうちから、
締め出されてしまったおびただしい事々。
私たちが忘れてしまったものの中に、
もっとも大切なものが眠っている。

ひつようなのは、新しいことじゃない。
古い記憶をひもとくことだ。
私たちはすでに、
すべてを持ってる。あたえられてる。

昨日も言ったけれど、
懐古じゃないんだ。

いにしえは、
私たちの「いま」に生きている。
それは、「いま」の深みなんだ。

「いま」を浅く流してちゃだめだ。
垂直に降りる。
力みといて、落ちる。

そうして「いま」の底で私たちを支えてる、
意識から捨てられたおびただしい亡者たちと、
再会を果たそう。

どんなささいなことでもいい。
とるにたらないことが、
むしろ重要だ。

かすかな吐息を、
聞きのがさないように。
己の声を消して。
目のなかの、
目をひらいて。

記憶の淵から、
すくいあげよう。







○風の音が、
ねこの鳴声みたいだ。


○鬼は、いるよ。

わたしたちの、
心の果てに。
いる、
はっきりと。

かなたの闇に、
感ずるでしょう。
目、凝らしてさ、
のぞいてごらん。

ほらね、こう。
手、ふってるでしょ。
みえないけれど、
感ずるでしょう。

かれら、
あんなにコワい顔して、
その実、強い味方なんだよ。

だいじょうぶさ、
委ねてごらん。
こわがらないで、
落ちてごらん。

かれらは最高の、
知性なんだよ。
わたしたちを救う、
智恵のすがたなんだ。


○宗教や信仰は、
あるとかないとかの問題にすり替えちゃったらだめだ。

心が在るってこと、
在る以上は、
信じてるってことだ。
有限の身体に、
超越を抱えてるってこと。


○子どものとき、
床の間にかざってあった壷の中が、
気になってしかたがなかった。

手をいれるのはこわかった。

それでもおそるおそる入れてみて、
底にふれると安心して、
けれどこんどは手がなくなっちゃうんじゃないかとか、
闇に棲むだれかに手をにぎられるんじゃないかとか、
心臓をばくばくいわせながら、
あそんでいた。

壷中天。

そこはもう一つの世界。

そう、
ドラえもんの四次元ポケットってのも、
おんなじかな。

あれは、壷なんだ。
子宮といってもいい。


○風の音が、
こんどは狼の遠吠えにきこえた。



○みなさま、今晩は。

上映会のご案内でございます。

↓こちら、今回の上映会を主催してくださった
「NPOいとなみ」の代表・藤井芳広(ふじいもん)さんが書いてくださいました。

++++++++++++++++++++++++++++++++++

韓国を一緒に歩いた友人と、
糸島に住む素敵な仲間たちとともにNPOをつくりました。
「NPOいとなみ」と言います。

伊都とか、糸とか、波とか、営みとか、
いろんな意味と想いをこめています。
...
これからひとつのスロービジネスとして
エコビレッジやオルタナティブスクールや
エコ建築や自然医療など、
いろんなことを糸島で実践&発信していく予定ですが、
いとなみの重要なテーマのひとつに「森の再生」があります。

それはネイティブ日本人、ネイティブアジア人、ネイティブ環太平洋人として、
聖地を蘇らせ、とりもどしていくことです。

森の再生と森の技術の習得を実践していく中で
まず自分たちが森のスピリットと技術と文化を取り戻し、
自然とともに、精霊とともに仲良く暮らしていきたいと思っています。

それに向けた第一弾の上映会&お話し会を
来月糸島で開催しますのでご案内させていただきます。

福岡周辺にお住まいの方、ぜひご参加ください。

よろしくお願いします。

ふじいもん

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

いとなみ森の再生プロジェクト2012 vol.1
 「茂庭のしなだ織」上映&語らいの会 in 伊都安蔵里
   ~木の皮から繊維を取り出す方法を学ぼうの巻~


糸島に持続可能なコミュニティをつくり、
国を越えていのちと平和の文化を創っていく
NPO「いとなみ」の森の再生プロジェクト第一弾のお知らせです。

今回は、木の皮から繊維を取り出し、
それを編んで布を作るドキュメンタリー「茂庭のしなだ織」の上映と、
日本の民俗文化に造詣が深い「ふゆる座」の秦きょうこさんをゲストにお迎えし、
日本の民俗文化と森との関係性、手づくり文化や女性性と
これからの暮らしなどをテーマにしたお話し会を開催します。

NPOいとなみでは、今後皮むき間伐による森の再生と、
そこから出る木の皮から繊維を取り出すワークショップを開催していきます。

みなさま、ぜひご参加ください。
そして一緒に森と、森の文化と、森のスピリットを蘇らせましょう!


日時:4月8日(日) 14時~17時

場所:伊都安蔵里 2階
    福岡県糸島市川付882
    http://itoaguri.jp/access/
    092-322-2222

参加費:1200円

お問い合わせ:fujiimon9森yahoo.co.jp(ふじいもん)
       ↑森を@に変えてお送りください。
       090-5543-9149

【上映作品紹介】

『茂庭(もにわ)のしなだ織』

1991年/31分/福島県福島市飯坂町茂庭
制作・演出:姫田忠義
製作:民族文化映像研究所

 ダムに沈む前に人々の暮らしぶりを記録しておこうと企画された奥茂庭シリーズ第3弾。
 福島市の北、摺上川の上流域で生活を営む茂庭の人々は、シナノキをマダと呼び、マダの繊維でシナダを織る。
 この布はお米を蒸かす時に甑の中に敷かれたり、養蚕のための桑を取るときい使う袋、ユダンとして利用されてきた。
 この映画は、長らく「しなだ織」の技術を伝えてきた人の記録である。


【ゲストプロフィール】 

秦きょうこ
 
1980年生まれ。
広島大学大学院教育学研究科修了。
現在、九州大学大学院統合新領域学府ユーザー感性学博士課程後期在学。
作家。語り部。
ふゆる座×むすびの文庫主宰。
2006年、中沢新一氏より「風の卵」の名をさずかり、作家活動をはじめる。
2011年より「ふゆる座」として、再始動。
古代の心とつながる術として、民俗学の書物にもとづく「生活の古典」叢書づくりやもの語り、
「民族文化映像研究所」の記録作品の上映会をおこなう他、
“食べる”ことに焦点をあてた「玄米ムスビの会」や「ふゆる菓子店」を展開するなど、
様々なカタチをこころみている。


主催:NPOいとなみ(法人申請中)
   ~いのちと ともに なつかしい みらいへ ~

++++++++++++++++++++++++++++++++++

これまで幾度か上映会をさせていただいてきましたが、

スクリーンに映し出される営み、
その技術を私たちの手にとり戻してゆこうとする試みは、初めてです。

そう、
映像によって照らされるのは、
過去の世界じゃない。
映写の光は、
現在、未来へ投射されてる。

懐古じゃない、
回帰じゃない、

ただ、継ぐんだ。
いのちにとって重要な精神を。
その現われとしての技術を。

あぁ、うれしいぞ。
心がはげしく躍っています。

すばらしい企画を、どうもありがとうございます。
いい会にしましょう。

みなさん、どうぞ、いらしてください。
よろしくお願いいたします。

ふゆる座○。秦きょうこ


○春雨、というには、
すこしはげしすぎる雨だ。
ざんざんと、降りつづけてる。

遅々としてはかどらない仕事。
深呼吸しても、ごまかせない焦りがあって、
けれども今日は雨の音がある。

無数の雨粒が、
焦りや力みの鎖を、
ぽつぽつと打ち、切り、はらってくれる。


坂口恭平さんをみてると、
なんだか涙がでてくる。
腑が、ふるえて、とまらなくなる。

すごい人だ。


○『定本柳田國男集』全36巻
 芳賀日出男『折口信夫と古代を旅ゆく』
ワタリウム美術館編『驚くべき学びの世界―レッジョ・エミリアの幼児教育』
仙田満『こどもと住まい―50人の建築家の原風景(下)』

注文。

読みきれないでしょう。
でもいいの。要るの。


○メメント・モリ。
死を想え。

というよりむしろ、
死者を想え。

ううん、もっと正しくは、
死者に想われている。
そのことを、
きちんとみとめよ。

死者は実在だ。


○わたしが病に冒され、
死の淵をさまよっていたとき、
寄り添ってくれたちいさな小鳥がいただろう。

彼のちいさな体もまた、
病に冒されていた。

けれども彼は、
けっして歪まない魂のあることを
身をもって教えてくれた。

そのつぶらな黒い瞳は、
いつもぴかぴかに光っていた。

おのれの体の不自由さを、
すべて受け容れて、
平静だった。

わたしの荒れ狂うこころに
みずから飛び込んで、
いつも不動の一点となってくれた。

わたしは彼にささえられながら、
かろうじて生をとどめていた。
そうして彼は、
わたしの病の癒えるころ、
ひっそりと息をひきとった。

憶えているよ。
その日その時刻に、
わたしの居た場所では雷鳴がして、
ベランダに何か小さな生き物が「とん。」と降りたつ音がした。

瞬間に、それは彼だってわかった。
わたしには、はっきりと、そのちいさな両足がみえた。
彼は死に、死者と生り、
そしてふたたび私を守りにきたんだ。

その見えない体をみつめていたら、
彼は一直線にこちらへ羽ばたいて、
右肩にとまり、耳と髪をすこしついばんでから、
心臓めがけて落ちるように飛んだんだ。

彼の鼓動が、わたしの鼓動になった。


○わたしの心臓は、死んだ小鳥です。
彼が生きているので、
わたしが生きています。

潰えそうな夜、
ひとりぽっちでいると、
彼の羽がふわりと頬にあたる。
いま、肩に止まってる。
その一点が、温かい。

「錦ちゃん。」
そっと名をよび、
耳をちかづけると、
すこしくぐもった声でこたえてくれる。

悲哀があふれる。

錦ちゃんへの。
錦ちゃんとともに生きている私への。

わたしたちは一緒に生きている。

それはひそやかなこと。
けれどそれこそが生の秘密。
わたしたちの生をささえているものの姿。

死者の力が、わたしたちを生かしている。


○若松英輔さんの
『魂にふれる―大震災と、生きている死者』は、
そういった内容だった。

わたしが民俗学をまなびたい、
とおもう最大の理由は、「死者」との交流のすべをとりもどしたい、
という一点にあるのではないか。

この本を読んでいて、そう思った。

「死者」はときに、
「夢」となり、
「思い出」となり、
「未来」となり、
「兆し」となり、
「鏡」となり、
「音」となり、
「うた」となり、
「色」となり、
「木」となり、
「石」となり、
「風」となり、
「夕日」となり、
「月」となり、
「風土」となり、
「闇」となり、
「幽霊」となり、
「無意識」となり、
「心」となり、
「神話」となり、
「イマジネーション」となる。

それらと出会い、
その声を、聴きとるのだ。

「児童の言語生態研究会」は、
民俗学(とくに心意伝承学)に学びながら、
40年来、それを学校教育のなかで実践してきた。

だから、こんなにも私は惹かれて、
彼らの実践をしっかりと研究していこうとしているんだろう。

どんな言葉になったっていい。

人がみずからを生き抜くということにとって、
「死者」の実在を想い、感じることがいかに大切かということを、
伝えていかなければならない。

なにも特別なことじゃない。
生きていく人間に、あたりまえの事実だ。
けれどそれは変にたわめられて、
素直に出せないようになっている。
素直にみとめられないようになっている。

とくに、「教育」の名の下においては。

「死者」にいだかれた生のつよさ。
それを根っことしてのびゆく教育学がひつようだ。
「児童の言語生態研究会」は、
そのことをはっきりと意識して教育にのぞんだ、
まことに稀有な存在であると思う。

いま私は、
ともに彼らの研究をひもといて、
こどもたちと遊んでくれる人を、切実に求めています。


○レッジョ・エミリアの幼児教育の本に、
実践の見せ方を学ぼうとおもう。

「児童の言語生態研究会」の授業実践。
絵本ができたらいいのにって、ずっと思ってるんだ。

40年を超える実践記録。
さぁ、この宝の山を、
どうやってみなの財産としてゆくか。


○雨粒のささやきもまた、
「死者」の声である。

話がとんだところまで来ちゃった、な。


○すこし落ち着いて。今日のごはんメモ。

朝、雑穀入り三分搗きごはん、さばの味噌煮、お味噌汁
お十時、梅ジャムと干し葡萄のぱん
昼、ごぼう天うどん
お三時、あんぱん、八朔
夜、雑穀入り三分搗きごはん、南瓜と鳥そぼろの煮物、
   ひじきの煮物、鯵のひらき、お味噌汁

ただいま実家で、すべて母作。
ありがたう、頭があがりません。


○まい度のことながら、
なんと内容にまとまりのないブログだろうか。

どうか、みなさんの堪忍袋の緒が、
切れちゃいませんように。

あいすみません。







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