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秦きょうこ
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非公開
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語り部。作家。
「むすびの文庫」と「ふゆる座」を主催しています。

いろいろのお問い合わせは、こちらまで。
上映会のご希望なども、お気軽にどうぞ。

musubino.huyuru@gmail.com
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○『定本柳田國男集』全巻とどく。
別巻ふくめて36巻。
千葉県の万葉書房さんから。
配送料込みで¥8100。


○梱包を解きながら、涙がでてくる。
心臓が高鳴って、くるしいくらいだ。

日本民俗学のはじまりの熱が、
ここに綴じてあるのだ。
わたしはそれを手にして、
ひらくことができる。

気をうしないそうなくらい深い安心感。
ただ、祖々の鼓動がわたしの心臓に鳴っているのを感ずるのみ。


○「人の子をかえせ。」
と、森がさけんでいるのを聴いたことがある。

風にざわざわと揺れながら、
かえせ、かえしておくれ、
と泣いていた。

「人の子を森に還せ。」

森が淋しがっていた。
森と人の子は、一緒にいるべきなんだろう。
引き裂かれては、不幸なんだろう。

そのとき、わたしは仕事で疲れちゃってて、
森の声に無言を返して通りすぎちゃったのだけれど、
それはないよな、
森はすごく傷ついたんじゃなかろうか。

ごめんね、でも応えたいよ。
あなたたちの願いに。


○小池龍之介さん。
ご実家である山口県のお寺に拠点を移されるのだそうだ。

これからまた、
お会いできる機会がふえそうです。
うれしいことです。

みなさん、一緒に遊びに参りましょう。

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○民俗写真家の芳賀日出男さんの写真集。
すこし重たいけれど、
このごろどこへ行くのも一緒だ。

折口さんに、会いたいよう。

叶わないから諦めたはずの思いが、
また性懲りもなくむくむくと湧いてくる。

折口さんが、すきだ。
でも、折口さんは、女嫌いだ。

会っても嫌われるだろうなー。


○菜の花は、うつくしい、おいしい。
ということを、遠くの友人とメールで語り合う。


○そうだ、
いとしま菜の花プロジェクト
というのが、はじまっているよ。

先日、伊都安蔵里でおこなわれた「伊都まつり」で、
小さなパンフレットをいただいた。

菜の花は放射性物質(セシウム)を吸収してくれるのだそうだ。

みんなのこういう行動は、すごいなぁ。

菜の花よ、
人間の犯した過ちだのになぁ。
ごめんよ。ありがとう。


○遠賀川沿いは、いま菜の花が満開。

4月14日(土)の上映会のご案内回りで、
昨日ずっと川沿いを上ったのだ。

と中、いくつもの大楠に守られてる扇八幡宮の境内で、
作っていってたお弁当をひろげて食べた。

まちがいない、
ここは天国だ。
と思った。


○きのうの昼餉。
・わかめと胡麻のおむすび
・梅干のおむすび
・ごぼうと人参のきんぴら
・蒸しかぼちゃ
・小松菜の胡麻和え

きのうの夕餉。
・菜の花と厚揚げとごぼうのみそ汁
・雑穀入り三分搗き米ごはん
・ぶり大根

きょうの朝餉。
・韮と大根と厚揚げのみそ汁
・かぶの漬物
・雑穀入り三分搗き米ごはん

お十時。
・梅鉢
・丸ボーロ


○「肉を食ふ事」、すこし補足。

マクロビオティックを始めた動機は、
もうひとつありました。

病気です。
心身ガタガタの数年間を送っていて、
どんどん身体が動物の肉をうけつけなくなっていました。
拒食気味でもあり、
ガリガリに痩せてしまっていたから、
周囲から「肉を食べなさいよ。」といつも言われていたのです。
「野菜ばっかりじゃ体力がつかない。元気がでないよ。」と。

けれどどうしても、すすんで食べる気になれなくて、
肉を食べずに健康をとり戻す食事の体系はないものかと、
なんとなく探していたところに出会ったのでした。

小池龍之介さん
いまは北九州の本屋さんでも
店頭平積みの売れっ子坊主さんですので、
ご存知の方も多いかとおもいます。
わたしにマクロビオティックを教えてくださったのは、
この方です。

当時彼のひらいておられた世田谷のイエデカフェにて、
彼のマクロビオティック料理をいただいたのが最初。

拒食気味のガリガリ身体とビリビリ神経にも、
そのお料理はやさしく沁みわたって、
「あぁ、おいしいなぁ。」
と、気がついたら声がでていた。

くわえてこの方のお料理はたいへんにメルヒェンで、
おとぎの国のようにかわいいのだ。
メニウの名まえも、ひとつひとつがメルヒェン。
もったいなくて食べられない、
のにやっぱり食べたい!という不思議ごはんたち。

イエデ通貨として、
イエデカフェにおける地域通貨のボタンも発行していたり、
瞑想セッションをしてくださったり、
おもちゃの木琴で即興演奏をしてくださったり、
とにかくたっくさんの「ほぐし」をくださる方だった。

その彼に、マクロビオティックという食事療法のあること、
彼自身も現在、奥津典子さんの「オーガニックベース」に通い、
修行を積んでいらっしゃることを教えていただいたのでした。

それがきっかけ。
実家に厄介になっている間は、
なかなか食事を好き勝手にできなかったけれど、
上京して一人暮らしをはじめてから、
一気に実践しはじめた。

いろいろの良いことが重なってもいたのだろう、
と思うけれど、
わたしの場合、効果はひじょうにはっきりと現れました。

はじめてから半年の間に。
じぶんを破壊しかねない程にはげしく生じていた怒りが、
いつの間にやら鎮まっていった。
成仏、チーン。という感じ。

もちろん聖人にも仙人にもなっちゃいないから、
イライラやカッカというのは今でも頻繁なのですが、
あきらかに怒りの質が変わった。

以前のはもっと、どろどろとどぎつく、しつこかった。
執拗、執着、執念、と「執」だらけの怒りで、
じぶんが焼け焦げてるのが分かった。
それでもどうしようもなくて、まだまだまだ、
これでもか、と、焼けつづけていた。

その焦土から、
突如として清水がわきだしてきたようだった。
焦土の熱と清水の涼とが、びゅうと風をおこして、
焼け残った草木をさやさやとゆらしてくれているみたい。
そよそよ、さやさや、
と、ゆれるままに任せていたら、
いつのまにか、心になんにもなくなっていた。
ぽかん、とただ青い空があった。

ありゃ、わたし、
何してたんだろう。

憑き物がおちたみたいに、
そう思ったのをおぼえている。

マクロビオティックが、
原因のすべてじゃあないとは思うけれど。

でも、すくなからず、
力をくれていたと思うな。
道を、ひらいてくれていたと思う。

だから、
「肉を食うよ、みなと生きるよ。」と言いながら、
わたしはマクロビオティックを止めるつもりはないの。
方法としても。
生き方としても。

矛盾してるかな。
表面的にはね。
でも、矛盾しない地平がある。
そこで思考していたい。


○実家の畑にて。
韮、ねぎ、セロリを摘む。
ブロッコリーも収穫。
小松菜の花蕾も。
さいごの大根も。

実家の冷蔵庫より。
飯塚の堅豆腐、油揚げ、
かぼちゃを恵んでもらう。
紫芋のかるかんも。

実家のMy床下庫より。
小豆、白いんげん豆、大豆、
全粒粉をとりだす。
梅干と、味噌も。

あぁ、これでまた生き延びられるよ。
いつもいつも、
ありがとう。



○動物を食う、
ということをめぐってくだを巻いています。

ここでは「動物」っていうことで、
「彼ら」「彼ら」とやかましく書いておりますけれども、
「彼ら」って他の生き物もふくんでいます。

植物もそうです。
食べる、という形ではないけれども、
わたしたちの多くが、
あるいは多くの時間わたしたちが、
その実存をみとめず、
ないがしろにしてしまっているおびただしい命たちのこともです。

わたしは自分が、
彼らにたいしてあんまり冷酷なので、
そしてその割には彼らとの深いつながりを
やたらととり戻したく思っているので、
こうしてぐだぐだと書いているのです。

しかし、この辺りの事、
みなさんが日常生活の中でどう整理し、
どう対応してていらっしゃるのかを聞いてみたい、
という気持ちもあって。

まずは私の鬱陶しいくらいの独白を、
こうして書き連ねてみています。



さて、一息いれたので、
もすこし、書きます。
ガッツです。


○外れてるのは私たちだけじゃないかな。
生き物の環から、外れているのは。
みずから壊し、そして孤独だって泣いているのは。

彼らはやさしい。
それでもまだ、私たちを待ってる。
人間が、真の誇りをとりもどすのを。
ほとんど諦めたようにして、
でもみつめているんだ。
人間が、どうするのかを。
殺されながら、みつめているよ。
いにしえの仲間としての私たちを。
環から離れ、孤立し、
その孤独を所有の欲望に変換させて
ますます不幸になってゆく私たちを。
彼らは心配そうに、じっとみている。

忘れないで、彼らは人間よりも、
はるかにやさしく、はるかに大きい。
人間が彼らを支配し、
その命を好き勝手に絶やしさえしていても、
大きいのは、彼らの方だ。


○彼らはわたしたちを見捨てない。
私たちの手を、ずーっと待ってる。

でも“保たない”ってことがある。
彼らがどんなにやさしくても、
その身体が私たちのふるまいに“保たない”っていうこと。

だから、すこし焦って書いてる。
8歳のあの日から今日この時まで、
声にするまでずいぶん時間がかかってしまったけれども。


○わたしがよみがえらせたいのは、
正しい食生活、というのではなくて、
世界との友愛。

もちろんそれらは相反するものではないから、
おんなじ道を歩むことになるだろうけれど。

とり戻したいのは、
友愛の行為としての「食べる」。
その為の作法。
他を食らって生きる生き物としての、倫理。
いのちの倫理。


○肉はおいしいよ、今でもそう思う。

鶏や豚や牛が、
多くどんな風に飼われて、殺されているかを知った今も。

たずねた食肉センターで、つぎつぎと遺体となってゆく彼ら。
たまらなくなって、その死に顔に抱きついて、
いやだ死なないでと号泣した今も。

鶏を羽交い絞めにして、その喉もとに刃を入れて、
動かなくなっていく小さなからだを両手に抱える経験をした今も。

肉は、おいしい。そう思う。

そして、彼らをすきだよ。
苦しめたくないとおもう。
大事にしたいとおもう。

どの口がそんなこと言うのかって、
その都合のよさに自分でも呆れかえってしまうけれど。

彼らをすきなんだ。
みずからの手は汚さずに、
卑劣に彼らを殺し食らいながら、まだ思ってる。


○その矛盾にひるみながら20余年を生きてきて、
相変わらずその地点から、一歩もうごけずにいるんだけれど。

今のわたしとは根本的にちがうふるまいが、
人間には可能なんだっていうことを、
そうしたふるまいを実際に人間はしてきたんだっていうことを、
さまざまな人に教えられてきた。

その、重要なひとつ。

アイヌ民族のイヨマンテ(熊送り)。
民族文化映像研究所が、1977年に記録したフィルムがある。

「この映画をもっと以前に観ることができていたなら、
わたしはヴィーガンにはならなかっただろう。」

と、ヨーロッパでの上映会の際に、
ひとりのドイツ人女性が語ったんだそうだ。
所長の姫田忠義さんが、わたしに教えてくださった。

わたしもまったく同感だったよ。

いのちを「食べる」ことへの嫌悪感と罪悪感とでつぶれそうになって、
彼らを食べないことでかろうじて生きていられた当時のわたしに、
アイヌ民族のイヨマンテは大きな光を投げ渡してくれたんだ。

人間が他のいのちに対してとりうる最高度の礼儀のすがた。
そこにはそれが映し出されていて。
いのちを狩っていのちをつなぐ狩猟民族の生命倫理のふかさが、
103分におよぶ映像のどの瞬間にも、ほとばしっていた。


こんな大事なところなのに、すこし疲れてきてしまった。。
ごめんなさい。

今日はもう余力がないのですが、
とにかく近いうちに、
みなさんと一緒に観たいなぁと思っております。
ご興味のある方は、ぜひ。お声掛けください。

私たち人間が、
他の生命との間に築きうる最高度にエティカルな関係ってどういうものか、
イヨマンテは教えてくれます。

もちろん、「イヨマンテ―熊送り」だけではなくって。
私たちの祖々が、
他のいのちに対してどんな風にふるまってきたのか。
人間というものをどんな風にわきまえてきたのか。
どんな生命哲学の下に暮らしを立ててきたのか。
民族文化映像研究所の記録作品群は、
それを私たちに教えてくれるものばかりです。

みなで一緒に学び、
そして、
生を深めていきましょう。


○ちなみに、この映像と、イヨマンテ(熊送り)の儀式については、
中沢新一さんが著書『東方的』の「映像のエティック」という文章のなかで、
とても丁寧に書いてくださっています。

みなさん、もしご興味持ってくださったなら、
ぜひお読みになってください。
もちろん文庫にも、ございます。


○また、肉食と菜食について考える際の観点については、
宮沢賢治さんの「ビジテリアン大祭」にほぼ描かれていると思います。

物語の中で、
非常に深い議論がユーモラスに展開されてゆくので、
これはほんとうにお薦めいたします。

当時において、これはすごすぎるよ。
宮沢賢治さん、
未来人だなぁ。今でも。


○そう、でもね、食べてるんだ。
わたしはこの頃、彼らを食べてる。

じぶんの健康のことを考えたら、
いいことかどうかってよくわからないのだけれど。
マクロビオティックを実践してたの、
だから動物の肉の性質については、少し知ってる。

けれど、この身体を通して、
彼らのいのちを生かすんだって、
彼らのかなしみを生かすんだって、決めた。

そうだ、
わたしは鶏だし、豚だし、牛だよ。
彼らだ。
報われないおびただしい彼らのいのちだ。
それを生きるよ。
できるだけ大事に、この身体に入れて。
みんなでわいわいと、生きる。

そうだ。
どんな風に飼われ、どんな風に殺されてきたのかを。
安いだの高級だの旨いだの不味いだのって、
そんな風に食らわれてきた命の思いを。
彼らの細胞に、語ってもらおう。

みんな、わたしの身体を使って。
どんどん使って、思いを、声にして。
わたしの身体と、その残り時間をあげる。
すべてあげるから、思いの丈を。

きっと分かるよ。
人間だって、分かる。気づく。
いまはなにかに化かされてるんだ。
耳ふさがれて、
ちょっと聞こえなくなってるだけ。
人間も、生き物だから。
あなたたちに等しい生き物だから。
あなたたちの悲しみが届かないはずがない。
あなたたちの傷を痛まないはずがない。

そう、距離だ。
距離が、久しくあきすぎている。
わたしを使って、あなたたちを声にして。
その声が、この距離を縮めてゆくよ。
人間をふりむかせ、
深層のやさしさを目覚めさせ、
あなたたちの実存を、よみがえらせていく。

わたしはわたしに宿る彼らに、
こうして話しかけている。
彼らはこたえてくれるよ。
わたしはうれしくって、身震いして、
目からよろこびの水をこぼすんだ。


○死んだ動物の声が聞こえるんだって?
またノイローゼなんじゃないか?

なんてうたがわれもするけれど、いいの。
ノイローゼだって何だって、いいんだ。
彼らとつながっていられるなら、それで私は。
下手に治っちまって器用に鈍らせちゃって、
彼らの声がきこえなくなる私より、ずっといい。

いいかい、たしかに彼らとわたし達とはちがう。
でもひとつながりなんだよ、
感じなくたって考えてみたらすぐわかることじゃないか。

かれらの命をもらってるんだよ。
どんな肉のかけらだって、
ほんとは殺されたくなかったひとつの命なんだ。

自由を奪われ、
ただ肉としてのみ計られて、
刹那的な欲望の対象とされてしまういのちの悲しみ。
わたしたちは、ほんとうは、
それをふかくふかく、理解できる。

どうしてそれで、声がきこえない?
きこえてるはずだよ、誰の耳にも。


○わたしは誰かを責めたいんじゃない。
でも、耳をふさいでるその手を、
どうか外していっしょに聞いてって思う。

声を。かれらの声を。

わたしは何も解決できていない。
かれらの声が痛くてしかたがない。
それにもかかわらず、
しばしば彼らの実在を忘れちゃって、
慌しく人とおしゃべりしながら、
ただ肉としてのみ彼らを食べてしまう。

そんなどうしようもない奴だからこそ、
耳をふさがないで、いたいんだ。

そしてほんとはどうありたいかって、
かんがえつづける。

わたしは今のところ消費者でしかないから、
消費者としてどうすべきかってかんがえる。
消費者としてどういう心をもつべきかってかんがえる。
消費者として、どう生産者の思いを汲むかってかんがえる。

そしてできるだけいい形をさがす。

肉を食うという事から長いあいだ離れて、
かんがえもせず、さがしもしないできたから。
ほんとう、すべてはこれからなんだけれど。

彼らの命と、環を。和を。
みんなでそれを、叶えたい。




○スーパーの食肉売り場から、
声が聞こえる。
動物たちの声。
彼等は殺されたんだけれど、
もう死んでいるんだけれど、
その亡骸に、声がこびりついている。

主体を奪われた彼らの。
客体としてのみ生かされ、
客体としてのみ殺され、
客体としてのみ食べられてゆく、
その彼らの。
声。
声。
声。


これが、わたしが肉を食べられないでいた理由。
菜食をつづけていた理由。

マクロビオティックを実践していた、
というよりも、
この悲しい命たちに触れられないでいた、
というのがほんとう。

彼らの命が、かなしすぎた。


○彼らの声が聞こえるようになったのは、
8歳のときだ。
サチが居なくなってから、
動物と人間のことをかんがえるようになった。

サチとわたしは同い年だった。
生まれた月も一緒だってことも聞かされて、
わたしはサチと自分とをまったく混同しちゃってたのだ。

わたしはサチだし、サチはわたしだ。
そこに境はなくて、
わたしは人間だし犬だった。

あの頃の身体感覚…
と目をつぶり記憶をたどると、
サチの身体が浮かんでくる。

小麦色の毛に覆われた、かわいい腕が。
先っちょがぴかぴかにぬれた長い鼻づらが。
ぴくぴくとよくうごいて、遠くの音をききつけるとがった耳が。
アスファルトを走るとカチャカチャと鳴る細い足先が。
べろんと長くて上手に食べものをすくいとる舌が。

ぜんぶ自分の身体の記憶としてよみがえってくる。
サチが近所の男の子にいじめられて、
ギャンッと声をあげたとき、
わたしはその声の分だけとっても痛かった。
その悲痛は、そのままわたしの痛覚に伝った。

どんな生き物にも、
あんな声をあげさせてはいけないって、
それはじぶんの許容を超えるって、
それ以来そう思うようになった。

サチにはじまり、
サチをこえて、
わたしはともに暮らすたくさんの生き物と、
そんな風にかかわって生きていた。
そのつもりだった。


○ところがサチが居なくなって、
おいおいと泣き叫びながら、
人間と動物との境目というものに目を凝らしていた時、
気づいてしまった。

サチが大すき、
どうぶつって呼ばれてる仲間たちを、
わたしは大すきだよ。

という自分の思いには、
大きな盲点があるっていうこと。

ほら、ねぇ、
今日わたし何たべたの?

鶏、ぶた、牛。

わたしがおいしいって食べてるものの中には、
その「どうぶつ」ってのがたくさん居るっていうこと。

サチが大すき、どうぶつが大すき。
という心と、
ただ「おいしい」というばかりで、
いのちに無関心に彼らを食べている自分とのあいだの、
断絶。
みごとに、ぶつりと、切れている。

そうだ、ごまかしちゃいけない。
正直でなくちゃいけない。
ほんとうは感謝なんかしていない。
生き物だとさえ思えていない。
肉は肉だ。
物だ。
客体だ。

そこに、
彼らの主体を読みとることを、
わたしは完全に、止めてるじゃないか。

彼らをすき?
ちがう。
すきなのは肉だ。

そうだ、だから、
「いただきます。」が、
人間にしかむかないんだ。
食べ物のありがたさを、
いのちの尊さを、
どんなにレクチャーされたって。

あぁ、どうしよう。
サチ、どうしたらいい?

あなたへの親愛と、
あなたに等しい生き物たちへの残虐を、
わたしは一体、どうしたらいい?

わたしはほとんどパニックになって、
じぶんを恐れるようになって、
肉を食べるということを、
うまくできなくなっていった。

スーパーの食肉売り場がこわくなった。
泣いてるんでもない、
怒ってるんでもない、
ただ静かに置かれた彼らの亡骸にこもる声が、
胸にわんわんと響く。

それは鼓膜を通さずに、
じかに胸にくる声。
たまらなかった。
のどが焼けるようだった。

どうぶつの姿を映し出しては、
「かわいい!」と盛り上がる為のTV番組がくるしかった。
動物愛護ということばを聞くと、
家畜たちのことを思ってどうしたらいいか途方にくれた。

わたしは、
どうぶつを好きだと、
もう言えない。
この断絶が、解決されないかぎり、
そんなこという資格なんてないんだ。

8歳のあの日から、
そんな重たいものが、
ずっとずっと、腹の底にあった。


○もちろん、
差し出された食事をこばむことはしないできた。
彼らの身体は、できるだけ丁重にいただこうとつとめてきた。
けれど、それって浅いんだ。

だからせめて。
そこに、芯からの感謝が無いのだということ。
「(命を)いただきます。」という声も、
慣習による感謝の念のでっちあげでしかないということ。
ようするに、
彼らの実存を、わたしは体感できていないということ。
あふれる思いによる「いただきます。」ではないのだということ。

そのことから目を反らさないでいよう。
せめてそこだけは、麻痺させないでいよう。
と、思ってきた。

ほとんど、戒律のようにして。
それは、最低限度の倫理だ。忠誠だ。
サチへの、
彼女に等しい生き物たちへの。

それさえ忘れてしまったら、
それさえ破ってしまったら、
わたしはもう、永久に、
サチと切れてしまうだろう。
もう二度と、
話ができなくなるだろう。
心が離れてしまうだろう。

大きなわだかまりが、
わたしとサチを引き離してしまうよ。

サチよ、
サチに等しいこの世の生き物達よ、
どうかわたしを、見捨てないでください。
それがどれだけ厚かましい願いかって、
わかっているんだけれど、どうか、聞いて。
あなたたちの輪に、和に、
わたしをも一度還してください。

一人はいやだ。
あなたたちの身体によって、
生かされていながら、
心がひとりぼっちなのはいやだ。

あなたたちを食らうなら、
あなたたちの丸ごとを食らえるように。
その気高さや、やさしさ、
賢さと愛らしさ、生き物としての敬虔さ。
そのすべてを、この身に、
生き写してもらえるように。

わたしがあなたたちを殺さねばならないのなら、
それがおなじ生き物としての、ひとつの誠実で当たり前のふるまいとなる地平で。
まったく平等なるいのちといのちとの、交わりとなる地平で。

それならわたしたちは、断ち切られない。
わたしたちの友愛は、傷つけられない。

わたしがあなたたちを食らっても、
わたしがあなたたちに成るということなら、
あなたたちはつづいていくから。
わたしがつづくのではなくて、
あなたたちとわたしとがつづいていくのだから。
細部の細部まで、わたしはあなたたちと成るのだから。

そう、でも、
今のわたしに、それは叶えられない。
まったくもって、その術がわからない。
だから、わたしは、
あなたたちを食べることができない。

「食肉」という言葉にさえ怯え、
その売り場に近づくことができない。
彼らのいのちを、
つるんときれいにパッケージされた、
彼らの無残な亡骸を、
その悲しみを深い傷を、
どうしてやることもできないから。
そこに泣き崩れるくらいしか、
わたしにはできることがないから。

ごめん。
あなたたちの誇り高いたましいを、
こんなにして、ごめん。

その上、なぐさめられもしないんだ。
だって、こうしたのは私だもの。
まぎれもない、私だもの。
私の意識が、これらすべてを生み出している。
顔むけが、できないよ。
彼らにあわせる顔がない。


そんな風に思ってきた。
20余年の、長いむねの患いだった。




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